狼と行政監査

20081215日 法学部3年 ナリケン

 

一.   前書き

本日のテーマは、二宮の変と並ぶ孫権の晩年の失策と言われる、呂壱事件です。呂壱事件とは一体何だったのか?原因は何か?事件の意味は?

という事を検証していきます。

 

二.   呂壱事件の概要

1.中書典校の呂壱が孫権に寵愛される。

2.呂壱、公文書監査の職権を濫用して、重臣達を罪に陥れる。

3.呂壱批判が相次ぎ、さらに冤罪事件も発覚したことで、ようやく孫権が呂壱の素行に疑いを持つ。

4.呂壱の悪事が発覚し、呂壱は処刑される。

5.孫権、各地の軍司令官に謝罪し、政治の問題点を指摘するよう求める。

6.政治批判の声が上がらなかったため、孫権は詔勅を出して改めて意見を求める。

 

呂壱が中書典校の官職に就いていた時期は、呉書には記されていないが、建康実録によると231年〜238年らしい。そして、呂壱が処刑されたのが238年の後半である。

 

三.   呂壱の素性

呂壱は呂壱事件関係以外で名前が挙がる事はない。

中書典校以前にどんな役職に就いていたかも不明である。

→関羽を捕えた馬忠並に謎の人物。

 

 

 

.中書典校とは

諸官庁と州郡の公文書の監査を行う役職

=行政監査を行う役職

各地の行政官が不正を行っていないかチェックして、トップ(皇帝)に報告する役目。(現代の政治や会社においても重要な役目)

トップに直接報告する立場にあるので、トップの信任厚い人物が選ばれる。

 

問題点

@監査役は不正を働きやすい立場

三国志演義の督郵を思い出してもらえば分りやすい。

(悪い報告をしてほしくなかったら、賄賂をよこせ。)

A監査役を監査できるのはトップのみ

トップの判断力が鈍って監査役を全面的に信頼すると、監査役はやりたいほうだい。

 

.呂壱の悪行

大きく分けると呂壱の悪行は二つ。

@     中書典校の職権を濫用し、重臣達のちょっとした過失を訴追したり、事件をでっちあげて訴訟を起こした。

A     専売品の売買について不正を働いた。

 

@について

典型的な監査役の権限濫用

多数の重臣が被害を受けたようだが、具体的に記されているのは顧雍(丞相)、朱拠(左将軍)、チョウ嘉(元江夏太守)、鄭冑のみ。

 

・顧雍のケース

顧雍が訴えられた原因は不明だが、孫権に問責された上、軟禁されている。

呂壱が後任の丞相に、反呂壱派の筆頭とも言える潘濬が就任する事を恐れたため、顧雍の訴訟はうやむやになった。

・朱拠のケース

部下の金銭トラブルから朱拠に横領容疑が掛けられ、孫権から問責された上軟禁された。数ヵ月後劉助が朱拠の無罪を立証したため解法された。

孫権の娘を娶っていた朱拠ですら無実の罪を着せられた事からも、呂壱の横暴のひどさが伝わってくる。

 

・チョウ嘉のケース

チョウ嘉は政治批判の容疑で投獄された。関係者として取り調べを受けた是儀の堂々とした態度に感銘を受けた孫権が釈放した。

 

・鄭冑のケース

鄭冑は不正を働いた呂壱の食客を処刑したことがあった。それを恨んだ呂壱は鄭冑を投獄したが、潘濬と陳表の請願で孫権が釈放した。

 

Aについて

専売品(塩・鉄etc)の販売は、本来中書典校の権限外のはず。

→担当官と結託して不正を行ったのだろう。

 

.呂壱批判

・孫登(皇太子)

→皇太子ですら諫言している所に、呂壱の横暴の凄まじさが読み取れる。

 

・歩隲(西陵都督)

→呂壱ではなく、陸遜・顧雍・潘濬を信頼するよう4回も上奏。

 

潘濬(太常)・・・資料4

→百官の集まる議場で自ら呂壱を斬ろうとしたものの、危険を察した呂壱が逃げたため失敗。その後、孫権に何度も諫言。

 

 

・李衡

大臣たちは李衡という人物を推挙して、孫権に謁見させた。李衡は孫権の前で呂壱の悪辣さをつらつらと並べ立て、孫権は恥じるところがあったという。

 

.呂壱失脚

@重臣達からの相次ぐ諫言

A朱拠の冤罪事件発覚

→孫権はようやく呂壱に疑いを持って、呂壱の調査を行う。

→悪行発覚→処刑

 

.呂壱事件の原因

@孫権の判断力の低下

57歳(238年時)という高齢

・“宿敵”張昭の死(236年)

A孫権と重臣達の信頼関係の欠如

・呉は豪族共同体で、臣下=豪族達は自己の権益の事しか考えていない(cf.赤壁の降伏論)

B呂壱の甘言

・「厳しい重臣達の言葉<側近の優しい言葉」が人情(cf.宦官)

・もしかして、孫権と呂壱の間に肉体k…アッー!

 

.呂壱事件、その後

孫権は中書郎の袁礼を派遣し、各地の軍司令官(諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱)に謝罪して政治の改革案を求めるも返事はなし。

→この事の意味

@皇帝が謝らないといけないほど、呂壱事件の波紋が大きかったこと

A孫権にはまだ過ちを反省するだけの度量が残っていたこと

B重臣達が「直言しても処罰されない」という孫権への信頼を失ったこと

 

孫権は改めて勅令を出して自己批判すると共に、意見を述べない重臣達を批判した。・・・資料5

→諸葛瑾がようやく意見を述べる。

.まとめ〜呂壱事件の意味

・孫権の判断力の衰えを示す事件

・孫権と重臣達の間の亀裂が露呈し、さらに広がった事件

 

十一.参考資料

ちくま学芸文庫『正史三国志68』今鷹真・井波律子・小波一郎訳

『呉書見聞』 http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/

『三国志博物館集解』

http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/cat_1242086.html

『建康実録』