復讐は夷陵に散って

4月18日 法学部3 ナリケン

 

.前書き

今日のテーマは劉備の東征、所謂『夷陵の戦い』の戦場考察です。黄巾の乱から40年近くに渡って戦い続けてきた歴戦の猛者、劉備。国内の反乱討伐で活躍しているものの、対外的にはまだまだ無名の陸遜。対照的な両者がどのような戦術戦略に則り戦ったのか検証していきます。

 

.プレリュード

21912月 関羽死亡。

22010月 曹丕、皇帝即位。

221 4月  劉備、皇帝即位。

 

.戦闘の概略

211

6月 車騎将軍張飛、部下に暗殺される。

7月 蜀軍、東征開始。

   孫権、諸葛瑾を和睦の使者として劉備の元に派遣するも、劉備はこれを拒絶。

   巫・秭帰に大都督陸遜ら駐屯。

   蜀の先鋒、呉班・馮習が呉の李異らを破り、巫と秭帰を占拠。

   劉備、秭帰に駐屯。

   荊州南部の異民族が劉備に出兵を志願。

11月 孫権、魏から呉王に封ぜられる。

 

222

1月 呉班、陳式の水軍が夷陵に進出。

   陸遜、宋謙らと共に、蜀の五陣営を破る。

2月 劉備、オウ亭に駐屯。

   劉備、馬良を武陵に派遣し異民族を懐柔。

   五渓蛮の沙摩柯らが蜀軍に加勢。

   黄権、魏への抑えとして、江北へ移動。

6月 劉備、呉の小隊を撃退。

   陸遜、火攻めを皮切りに、蜀軍へ総攻撃をかける。

   張南、馮習、馬良、沙摩柯らが戦死。

   劉備、馬鞍山で再起を図るも、陸遜に壊滅させられる。

   劉備、白帝城に帰還。

 

四.はい、呉の酒です。

@ロウ中で荊州侵攻の準備をしていた、猛将張飛が死亡。

・蜀国内の反対の強い出兵

→限られた人材による軍編成。

→主戦派で歴戦の張飛の死は大きな痛手となった。

A蜀軍進軍開始

 

.陸遜さんじゅうきゅうさい

@大都督陸遜、秭帰に駐屯。

・朱然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、鮮于丹、孫桓ら総勢5万人。

A蜀軍先鋒の呉班と馮習が巫の李異を破る。

B陸遜、秭帰を放棄し退却。

・緒戦は蜀軍が快進撃を見せる。

→勢い盛んな蜀軍に正面から当たるべきでないと陸遜は判断。

  戦略的撤退を行う。しかし、呉の歴戦の武将達は、陸遜の態度を弱腰と非難。陸遜は蜀軍のみならず、呉軍内部の統制にも気を配らなければならなかった。

C劉備、秭帰に駐屯。

D荊州南部の異民族が蜀軍に協力を申し出る。

 

.Nice ship.

@劉備、蜀軍を二つに分割する。

・秭帰…劉備

・夷陵…呉班、陳式(水軍)

→長江の流れに乗ることで、蜀軍水軍は呉軍の側面を突くことができる。

呉軍にとっては退路を遮断する恐れがある、重大な脅威だった。

 

A陸遜、宋謙らを連れて蜀の5つの陣地を破る。

・陸遜の戦略

→蜀軍の油断を待ち、一気に蜀軍を壊滅する。

→この攻撃は蜀軍への牽制よりも、血気盛んな呉将達の不満を抑えるために行われたものと見るべきだろう。

 

B陸遜、夷陵まで呉軍を撤退させる。

・防衛線を大幅に後退させて、蜀軍を呉領の奥深くまで誘い込むという大胆な戦略。

←水軍による退路遮断を防ぐため。

距離によって蜀軍の疲労、油断を誘うため。

夷陵の地理的不利を蜀軍に押し付けるため。

 

七.そんなにホイホイついてきていいのかい?

@劉備、オウ亭に進軍。

・秭帰からオウ亭に至るまで700里に長大な陣営を築く。

←山と川に挟まれた地形では、一列に軍営が密集してしまうのは当然。

劉備としてはオウ亭はあくまで通過点に過ぎず、呉軍との決戦場にはなりえないと考えていた。

A馬良を武陵に派遣、沙摩柯を中心とした異民族の軍が長江南方で蜂起。

B劉備、黄権の部隊を魏への押さえとして、北方に移動させる。

・襄陽からオウ亭まで魏軍が出向く事は考えにくい。

→劉備の突出を諫めた黄権を疎ましく思って、遠ざけた可能性が高い。

C劉備、蜀軍水軍を解体。

・ただでさえ少ない実働兵力を自ら削減するという愚策。

これによって呉軍は側面を気にせず、正面の蜀軍だけに専念できるようになった。

←黄権を一時の怒りで退けたことに罪悪感をもって、彼の進言を中途半端に取り入れてしまったという事か?

 

D劉備、呉班を囮に呉軍を伏兵で殲滅しようとするも失敗。

・時間による蜀軍の疲労と油断を待つ陸遜は挑発にのらず。

E蜀軍先鋒、夷道で孫桓を包囲。

・陸遜は孫桓の指揮能力を信じて、援軍を送らなかった。

 

八.燃える空

@陸遜、蜀陣地の一つを攻撃するも敗退。

・威力偵察が目的。

→蜀軍には火攻が有効と判断。

・久しぶりの戦闘で勝利した事で、結果的に蜀兵が呉軍を侮る事になってしまった。

 

A陸遜、蜀軍に総攻撃をかける。

・大規模戦闘の決着は通常、平野での正面衝突でつけるもの。

→「移動中」の状態の敵に対して総攻撃を仕掛けるという中国史上稀に見る戦術。

→蜀軍は40の陣営と数万の兵、そして張南、馮習、馬良、沙摩柯ら多くの人材を失った。

 

・火攻の有効性

→隘路に密集した陣営

→隘路に直接兵士を突撃させても、戦える人数は限られてくる。しかし火攻なら少数でも実行でき、かつ延焼で大打撃を与えることができる。

さらに、蜀軍は一直線に陣を引いているため、数箇所に火を放ちさえすれば、兵士達は前後に火を放たれて逃げ場を失ったと錯覚し混乱する可能性が高い。

 

・別働隊として朱然と孫桓がそれぞれ蜀軍の退路を遮断。

→城塞防衛戦から間髪入れずに、追撃戦に移行できた孫桓の手腕は見事。

 

B劉備、馬鞍山で蜀軍の建て直しを図る。

C陸遜、馬鞍山を包囲し、蜀軍を殲滅する。

D劉備、白帝城に逃げ込む。

・呉軍諸将は追撃を主張したが、陸遜は直ちに対魏防衛線の構築を開始した。

 

九.夢の終わり

222

8月 劉備、敗残兵を引き連れて、巫に駐屯する。

・東方防衛の要。

・大将馮習の戦死と、兵士の鼓舞のために、皇帝自らが指揮しなければならなかった。

   劉備、白帝城に帰還。

9月 魏軍、三方面より呉征伐を開始する。

10月 孫権、白帝城の劉備に和睦の使者を送る。

   劉備、呉との和睦に応じる。→5ヵ月後、劉備死亡。

 

.まとめ

・陸遜の戦略は距離と時間で蜀軍の油断と疲労を誘い、一気に完全勝利を収めること。

・隘路での決着という三国志上稀有な戦い。

 

 

十一.参考文献

ちくま学芸文庫『正史三国志1、5〜7』今鷹真・小南一郎・井波律子訳

宝島社『別冊宝島 新解釈でよみがえる三国志のすべて』

新人物往来社『別冊歴史読本 諸葛孔明謎の生涯』

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