真・CHINA WARS
episode
8
~震える山~
2007年5月21日
商学部4年 レン
1.ぷろろーぐ
今宵の舞台は、黄巾の乱から万余の夜を越え、戦い続けた英雄二人の最後の戦い。劉備と曹操による「漢中争奪戦」ですね。両陣営に最高の武将が揃っていた時期の戦いであり、「三国時代」以前の「三国志」最後の決戦。その中からいくつかの局面に絞って分析していきたいと思います。
さてさて、彼らはどのように戦ったのでしょうか?
2.漢中争奪戦の流れ
216年
張郃と張飛が交戦→張郃は撤退
漢中近辺の住民を移住させる
217年
張飛、馬超、呉蘭が下弁に駐屯、曹洪、曹休が防御
218年
3月 曹洪が呉蘭を破る→張飛、馬超が漢中に撤退
劉備、陽平関に着陣
陳式、馬鳴閣街道封鎖→徐晃、陳式を破る
7月 曹操出陣
9月 曹操長安到着
張郃と劉備が交戦、決着つかず
219年
正月 夏侯淵戦死
3月 曹操と劉備が陽平で対峙
趙雲が魏軍相手に奮戦
5月 曹操撤退
3.張張発止
漢中争奪の前哨戦
張飛軍が間道を通っての待ち伏せという理想の戦法で張郃を撃退することに成功
→地形を知ることがどれだけ戦況を左右するのかがわかる好例
4.地を行くもの
張郃がこれを防ぐには…
地元住民や斥候から情報収集を徹底
抜け道に簡単な防御施設(馬防柵など)や伝令を配備しておく
→兵士数から考えても負けは無い
前段階で張郃が住民を漢中に移住させていた
→戦いには敗北しても戦略的には充分な効果があった
5.未来への咆哮
劉備は葭萌関→関城→陽平関
張飛・馬超・呉蘭・雷銅を北上させる
呉蘭を下弁、張飛を固山に配置
曹洪の動きに対し張飛が糧道を断つ動き→曹休に陽動と見破られる
呉蘭は敗退、張飛・馬超も漢中に撤退
陳式が糧道を断つ作戦に出るも徐晃に敗れる
劉備は陽平関に布陣→にらみ合いへ
6.ここにいるぞ!
曹操の遠征に合わせた大規模攻勢→ここしかないタイミング
固山の張飛が陽動しかできなかった=固山と下弁が連携できていない証拠
下弁と固山に布陣させたのは失策?
→5万の全軍が動くことを想定していなかった?
下弁を抑えることにより長安~南鄭ルートへの楔とすることが出来る
→下弁を抑えようとするのは当然=敵も同じこと
連携を上手く取れなかったのが一番の敗因、か、見捨てた?
馬超は何をしていたのか→羌族の協力をねらったのでは?
→氐族の妨害にあった可能性あり
劉備がどうやって陽平関を占拠したのかは記されていない
張魯攻めで苦戦した軍事拠点を放置しているわけが無いのだが…
→北上部隊自体が囮で劉備の陽平関奪取を目指す二重作戦だった可能性も
曹休の判断は見事→この時点で下弁を奪取したのは大きい
→補給線の確保に加え、劉備軍と羌族の連携は不可能に
魏軍は陽平関の確保を優先すべきだった→後の敗戦を考えると尚のこと
劉備軍は下弁を抑えておきたかった→キープできれば後の歴史は変わったかも…
資料にはほとんど無いが、この後はお互い補給線の潰しあいが展開されていたはず
7.震える山
陽平関の劉備と定軍山の夏侯淵の睨み合い
郭淮が病気で陣中から下がる
張郃の陣が夜襲される→夏侯淵が救助に→黄忠に斬られる
張郃を臨時の総大将に、郭淮の策に従い劉備を一時食い止める
曹操と劉備が対峙→劉備の立て篭もり作戦にジリ貧の魏軍→鶏肋
8.星霜巡りて
正に劉備会心の戦
突出型の夏侯淵の性格を踏まえた作戦
火攻めを許したのがそもそものミス→斥候で敵の動きは把握しておきましょう
定軍山を取られた後でも曹操軍に勝ち目はあった
・劉備軍は各拠点に兵力を分散していた
・劉備軍は拠点占拠からあまり時間が経過していない
・劉備軍を上回る兵士がいた
・益州から漢中への輸送ルートは限られている
相互の連絡を分断するように各個撃破して輸送ルートを断つことは可能だったのでは?
劉備はとりあえず漢中を保持すれば勝ちなので守りに徹していれば良い
劉備側がここで曹操軍を打ち破るのは難しい
→幸村作戦がやってやれないことはないかも?
*このときの劉備軍の防衛法は尾根伝いに襲撃を繰り返したことと予想されるので
9.鶏肋
ちょいとおまけを
なぜ漢中は「鶏肋」なのか?
張既の献策により漢中の住民は既に長安をはじめとする他所に移住していた
・生産性が無い土地
・対劉備の前線基地としてのみの価値
・食料の輸送などのコストが大きな負担
・戦うのであれば関中のほうが戦いやすい
曹操に益州侵攻の意志がなければ正に「鶏のアバラ」
ただし、いざ劉備に取られてしまうと
・西から長安
・南から許
を狙われるという非常に守りにくい事態になる
それでも放棄したのは、この時点で呉と何らかの話し合いがあったのでは?
10.まとめ
最終的に勝敗を分けたのは土地勘
法正の功績は大きい
劉備が下弁を保持できていれば後々の軍事作戦が楽だったのに
夏侯淵は郭淮が病気療養していなければ…
専守防衛を取られた時点で曹操に打つ手はほぼ無かった
劉備は魏にとって最高の形を取ることが出来たが…
11.遥かな歴史を思えば…
実は記述が少ないんですよ。肝心なところの。しかも微妙に食い違ってるし。特に馬超が何やってるかわかんない。下弁近辺の地形から考えて呉蘭とかがそんなあっさり敗れたとも思えないんだけど…それに陽平関がすんなり劉備のものになっているのも不自然すぎです。ぶっちゃけ、蒼天航路の解釈が一番真実に近いんじゃないかという気がしてくる…
それに、夏侯淵さんは何を突出してるんでしょうか?そんなだと秀吉に馬鹿にされるのであります。郭淮さんが御傍にいれば別だったのかもしれません。
いずれにせよ、劉備が会心の勝ち戦をしたという結果は今更変わらないわけです。これで、関羽と呼応して二都を攻めれれば…まぁ、外交は戦争より大事なのです。
さて、次回はどこをやりましょうかねぇ…?
参考資料:
『三国志』Ⅰ~Ⅲ 井波律子・今鷹真・小南一郎訳 筑摩書房
『資治通鑑』 三国志研究会蔵書