青州兵考察

 

第一文学部 2年  かみ

 

壱、      はじめに

 青州兵が元々黄巾賊の残党で、曹操に降った後、彼の軍の精鋭として活躍し、軍の主軸となったことは良く知られているのではないかと思う。しかし、彼らがどのような存在だったのか、どういった性質を持っていたのか、またどうして強かったのかは意外と知られていないのではないのだろうか。今回はそんな青州兵に焦点を当てて考察したい。

 

弐、青州兵が生まれるまで

中平元(一八四)  黄巾の乱

乱の鎮圧後も残党として活動

初平三(一九二) 青州黄巾賊が冀州の黒山賊と合流するため、渤海郡に侵入

→公孫瓚が撃破

・賊軍、任城国の相・鄭遂や兗州刺史・劉岱を撃破

曹操が陳宮の根回しで兗州に入り、牧となる

手勢千余を連れていた曹操に遭遇、数百を討ち取る

曹操は青州黄巾賊の強さを痛感した

その後、曹操は鮑信を失いながらも伏兵戦法で賊軍を徐々に追い詰め、降伏させる

(兵:三十万余 一族:約百万) 兵のうち精鋭十万余りを青州兵として組織

降伏した賊のうち、選ばれた精鋭が青州兵と呼ばれた(資料@)

 

参、青州兵の性質

黄巾の乱後も活動を続け、「漢行已尽、黄家當立」と標榜し、宗教的性質を保った

儒教政権である後漢への反発

なぜ強かったのか?

1、 戦闘経験の豊富さ

2、 団結力の強さ

その反面、他の兵から略奪するなどしたが(資料A)、曹操はこれらを不問とした

量、質ともに曹操軍の主軸となっていたため

曹操死後、青州兵たちは帰郷する(資料B)

 

肆、曹操軍の精鋭として

呂布が青州兵を破ると、曹操陣営は混乱→敗走

青州兵降伏後の彼らに関する具体的な記述は、呂布の騎兵に撃破された箇所(資料C)と略奪と帰郷の件ぐらい

それでも、投降した兵の質と量を考慮すると、その後の曹操の快進撃が青州兵の力無くして達成されたものとは考えにくい

→曹操軍の中核となったため、わざわざ青州兵の戦功を挙げるまでもなかった

屯田制に組み込まれ、平時は農作に従事

 

伍、まとめ

曹操は青州黄巾兵を取り込む際に彼らと契約を交わしていた

@  集団の存続の容認

彼らの宗教心に基づく戦闘力、団結力をそのまま活かすため

曹操がその屈強さを肌で知っていた

A 一族の生活保障

このまま賊として活動を続けるよりは曹操の傘下に入ったほうが一族は安全と考え黄巾兵たちは一族を伴って投降した

曹操も兵の一族を危険にさらすのは士気低下につながると判断した

B 曹操が死んだら契約終了

曹操一代が契約期限

 

陸、      あとがき

  久し振りにレジュメを書いてみたのですが、推論だらけになっちゃったなあ…

全体的に青州兵に関する具体的記述が意外と少なかったことと、その記述も敗戦やご乱行だけだということに少し驚きました。こうした厄介な一面を持った集団は曹操のような並外れた器量と力量のある人間にしか扱えないでしょうね。この時代の曹操以外の人間が相手だったら、黄巾兵たちも投降するつもりはなかったかもしれません。取り込もうとしても鄭遂や劉岱のように返り討ちに遭うか、もし屈服させても再び反旗を翻されたり、手に負えない兵たちを全滅させたりすることになりそうです。

知識がまだまだ未熟で、人前で話すのは慣れていない僕ですが、これからも精進しますので今後ともよろしくお願いします。

 

漆、参考文献等

『正史 三国志 魏書1』 陳寿 著 裴松之 注 今鷹真・井波律子 訳 ちくま学芸文庫 一九九二

『正史 三国志 魏書3』 陳寿 著 裴松之 注 今鷹真 訳 ちくま学芸文庫 一九九三

『魏晋南北朝』 川勝義雄 講談社学術文庫 二〇〇三

『図解雑学 三国志』 渡邉義浩 ナツメ社 二〇〇四

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