〜劉焉一代記〜
2007年 6月29日
第一文学部2年 かみ
I.
はじめに
演義では幽州刺史として劉備三兄弟の義勇兵を迎え入れ、いつの間にか益州に赴任、そして大した出番も無く、子の劉璋にバトンを渡し、歴史の表舞台から消えていった男・劉焉。しかし、正史での劉焉はそのような、「あ、そんな人もいたっけ?」などという演義での描かれ方を嘲笑うかのように異彩を放つ一代の梟雄でした。今回は、皆さんにそんな劉焉という男の生き様を改めて考える時間を提供できれば幸いであると思っています。
II.
王室の血を汲む者として
・荊州江夏郡竟陵県出身
・劉表と共に、前漢の魯恭王・劉余(景帝の子)の末裔とされる
・王族であるという理由から中郎に任ぜられる
→劉備の家系よりは優遇されていた?
・その後、師の喪に服すため、一時期官を辞すも賢良方正に推挙され、
洛陽令、冀州刺史、南陽太守、太常などを歴任
・中平四年(188)、刺史・太守の腐敗により、人民が離反していることを霊帝に上表し、
清廉な臣を州牧として各地に置くべし、と説く(資料1)
・刺史 州の監察権のみ保持
・州牧 州の監察権に加え、行政権・軍事統轄権を保持
→従来の刺史が持たなかった行政権や軍事統轄権を持つ州牧が設置されたことで、各地の州牧が強大化し、結果として群雄割拠の傾向が形成される契機になった。
→後の益州支配への布石
III.
益州へ
V-T.益州というところ
・益州の前史
戦国時代後期
秦による開発(鄭国渠の建設など)が進行し、農地拡大
A.D.25
公孫述が蜀で白帝と称し、成(〜36)を建国
独自の貨幣(鉄銭)を制定するなど、中原より一歩進んだ政治を展開(資料2)
・地理
塩・鉄・銅などの資源に豊富
険しい山地→守りやすく、攻めにくい
以上の歴史的、地理的要因が劉焉の行動に大きな影響を与えた
V-U. 計画通り?
・最初、動乱を避けるため、交阯の牧を希望
→本来なら「交州牧」と表記するのが正しいのでは?
・侍中の董扶(益州広漢郡出身)が「益州に天子の気がある」と進言したことにより、翻って益州の牧となることを希望
→、最初から内心では益州に行くつもりで、交阯への赴任を希望したのはというのは野心を隠すための配慮だった
・益州刺史の郤倹(郤正の祖父)がでたらめな徴税を行い、悪評が高まっていた中、劉焉のかねてからの計画が実現
監軍使者・益州牧を兼ね、陽城侯に封ぜられ、郤倹を逮捕し、罪を取り調べることに
董扶は劉焉に従い蜀郡西部の属国都尉を希望、太倉令の趙韙(益州巴西出身)も官を棄てて劉焉に従う
→益州人らしい行動(既得権益を守るためには外部の有力者をも利用する)
・注目すべきなのは、劉備より20年以上先んじて、しかも朝廷の認可の上で益州を手に入れた点であろう。劉備が劉璋を降した後に益州牧となったのに対し、劉焉は郤倹を逮捕して益州に入る前に朝廷から益州牧に任ぜられている。
V-V.益州支配の完成
・この頃、馬相・趙祗が黄巾と号し、緜竹で蜂起
県令の李升を殺した後、合計一万余人の反乱軍となり、蜀に侵攻して郤倹を殺害
・益州従事の賈龍がこれを破り、劉焉を迎える
劉焉は役所を緜竹に移し、善政を敷きつつ独立の計画を推進
→東州兵(資料3)が軍事基盤になっていたため、スムーズに計画が進行した
・張魯を督義司馬として漢中に派遣し、朝廷の使者を足止めさせ、一方で朝廷に「米賊が道路を断ったため、連絡できなくなった」と上書
一方で州内の豪族王咸・李権(李福の父)らを殺して権威を示し、これに反発して挙兵した犍為太守の任岐と賈龍を討つ
→青羌という部族を率いて戦った(資料4)。彼とも誼を結んでいたのでは
・こうして、最盛期(資料5)を迎えるが…
V‐W.梟雄の子は…
・四人の息子
長男・劉範(左中郎将)、次男・劉誕(治書御史)、三男・劉瑁(別所司馬)、四男・劉璋(奉車都尉)
→劉瑁と劉璋は同母兄弟と思われる。ちなみに劉璝も同姓で、劉瑁、劉璋と同様に王偏が名に使われていることから彼らと兄弟だったという説もある
・劉瑁だけ劉焉の側に置かれ、残りの三人は長安の献帝の近くで仕えていたが、献帝が、意気が盛んな劉焉をたしなめるため、劉璋を遣わしたが、劉焉は劉璋を自分の下に留める
→弟二人は兄達より可愛がられていた
V‐X.劉焉の終焉
・初平四年(193)、征西将軍・馬騰が李傕らを誅するため、長安を襲撃
劉焉も馬騰に呼応し劉範に挙兵させた
→軍閥同士の勢力争い
・計画が露見し、馬騰は樊稠に攻められて涼州へ逃れ、劉範、馬宇も殺される
更に劉誕も連座して処刑される
・折からの落雷で城郭や車具が焼失すると、役所を緜竹から成都に移す
興平元年(194)、この災害と息子達の死による悲しみのあまり、悪性の腫瘍が背中にでき、それが原因で死亡
趙韙は劉焉の後継者として温和な劉璋を擁立
I.
まとめ
・正史における評価
『三国志 蜀書』では「劉二牧伝第二」に分類
→子の劉璋と共に劉備に先んじた益州の統治者として陳寿に認識される
『後漢書 列伝第六十五』では袁術、呂布と共に分類
→劉焉は州牧設置を献言し、それを利用して益州に半独立政権を築く
袁術は国政を壟断する宦官の討伐に功があるも、後に帝位に就く
呂布は董卓を誅殺するが、その後大陸を転々とし、諸侯を煩わせた
→朝廷の視点に立ってみれば、群雄の中でも曲者の部類に入る人物達
・演義での劉焉
幽州刺史として、劉備軍を黄巾討伐に起用、いつの間にか益州に移りいつの間にか病死
→正史では、黄巾の乱勃発時の幽州刺史は劉虞。同姓のため混同?
II.
雑記
劉焉が主人公のレジュメのためか、少々彼贔屓の描写が多かったかもしれません。その傾向が強かったためか、執筆中に劉備がまるで劉焉の追随者というか模倣者であるとさえ思えてきました。劉焉は「驕れる者」のイメージが強いけど、息子の死や天災にショックを受け、病を得て死んでいくあたりに彼の人間味を感じます。
今回の発表で、皆さんが劉焉に関心を持ち、知識を深める契機となれば幸いです。もう存在感がないなんて言わないで下さい。(笑)
III.
参考資料等
陳寿 著 裴松之 注 今鷹真 井波律子 訳 『正史 三国志1・5』 ちくま学芸文庫 1993
范曄 著 李賢 注 『後漢書 第二冊・第八冊』 岩波書店 2004
黄巾イレギュラーズ 編 『出身地でわかる三国志の法則』 光栄 1995
坂口和澄
『正史三國志群雄銘銘傳』 光人社 2005
西嶋定生
『秦漢帝国』 講談社学術文庫 1997
Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/