三国時代における異民族の動向とその考察
第一弾 鮮卑
〜Menace from the north〜 北方より来る脅威
2007年12月6日(イスラーム暦1427年 11月26日)
第一文学部2年 かみ
1.はじめに
中国史はしばしば、内地(長江・黄河の下流・中流域一帯)の漢人と、外部の異民族との抗争であると形容される。これは中国で実在が確認できる最古の王朝である殷が異民族(殷側の視点に立てば、周王朝を建てた周族は夷狄であった)に滅ぼされて以来の一種の宿命であると言えよう。ところが、三国時代の異民族といえば、活動が地味で精彩を欠いている印象を受ける。
そこで今シリーズ「三国時代における異民族の動向とその考察」では従来の漢人対異民族という構図だけでなく、異民族対異民族という構図、及び民族内の内部抗争も視野に入れて、三国時代において異民族とされる民族が、具体的にどのようなことを行ったのか、またどのような歴史的役割を担ったかについて、正史の記述をベースに詳しく考察していきたい。本日の発表が、その皮切りとなる「第一弾・鮮卑〜Menace from the north〜 北方より来る脅威」である。
2.前史
・鮮卑の文化
前漢初期
匈奴の勢力拡大により遼東に逃れた東胡の末裔
→鮮卑山に拠ったことから、鮮卑と称される
根拠地には中国内地に見られない禽獣が生息していたとされる
モンゴル系騎馬遊牧民族で、言語・習俗は烏桓と同じ(資料甲)
・北の大地に立つ
45年 匈奴、鮮卑と烏桓を率いて中国内地に侵入、略奪→鮮卑にとって初の中国内地への侵攻
→内部分裂などによる匈奴の弱体化→鮮卑の都護・偏何が北匈奴の左伊育訾部を討ち、遼東太守・蔡肜から恩賞を受ける
54年 鮮卑、後漢に朝貢、於仇賁が王となる
58年 蔡肜、偏何に財物を贈り、度々侵入する烏桓の歆志賁を討たせる→再び恩賞を受ける
⇒夷を以って夷を征する←一つの民族の極端な強大化を防ぎたい後漢側と、勢力拡大を図る鮮卑側の利害が一致したため可能となった
二代皇帝・明帝(57〜75)、三代・章帝時代(75〜88)→後漢の安定期、鮮卑の侵攻の記述なし
⇒後漢への服属状態が続いた
・鮮卑の強大化と英雄・檀石槐
四代・和帝時代(89〜105)→北匈奴の単于が竇憲に敗れ、逃走
鮮卑が、散り散りになり自ら鮮卑と称した匈奴族十余万人を組み入れる⇒のちの強大化の契機
115年〜132年の17年間にそれぞれ漁陽、雁門など内地に13回侵入
⇒侵入が秋、冬に集中していることから、収穫された作物を略奪しようとした意図が窺える。また、軍事力の強大化、後漢中央政府の混乱などの要因も度重なる侵入を可能にしたと思われる
156年 20歳の檀石槐が騎兵を率い、并州の雲中に侵入
→181年に没するまでの25年間に17回内地に侵入、幽・并・涼州を蹂躙する。その一方で檀石槐の時代に鮮卑は弱体化した南匈奴の故地を征服し、東は右北平の烏桓、西は敦煌の烏孫と境を接する大勢力となる(史料乙)→領地を三分割し、それぞれの地に大人(酋長)をおく
3.後漢末と鮮卑
・分裂時代
189年 檀石槐の子・和連、涼州の北地郡に侵入するも、庶民に弩で射殺される
和連は父ほどの力量はなく、貪欲・淫乱だったため部下の半数が従わなかった
→和連の子・騫曼が幼少のため、和連の甥・魁頭が立つ
騫曼が成長すると、魁頭と対立して国を争い、部下が離散する
→魁頭が死ぬと、弟の歩度根が立ち、同時期に歩度根の次兄・扶羅韓も大人を称す(史料丙)
⇒傑出した統率者の不在により、部族内の対立が顕在化した結果
199年 袁紹、公孫瓚征伐→公孫瓚に恨みを抱いていた烏桓司馬・閻柔は、烏桓、鮮卑、漢人併せて数万の兵を以て公孫瓚側の漁陽太守・鄒丹を攻め殺す→閻柔は若い頃、烏桓や鮮卑に拉致されたが、頭角を現して彼らの支持を受けていた
・軻比能の登場
鮮卑の中でも弱小の勢力出身だったが、勇敢で力量があったため、大人に推戴される
⇒軻比能の登場により軻比能、歩度根、素利の三者の勢力が拮抗。鮮卑内部の群雄割拠
〜198年? 袁紹の河北進出→難を逃れた中原の漢人を庇護、彼らから武器、鎧、盾の製造法、文字を教わり、兵の指揮法を漢式とする(史料丁)⇒軍事力の強化
207年 曹操の袁家・烏桓征伐終了後、後漢朝廷に遣使(史料丙)
歩度根も遣使したが、しばらくして軻比能は扶羅韓を殺してその子・泄帰泥とその配下を取り込み、歩度根と対立
211年 曹操の関中討伐→河間で田銀が反乱、軻比能は烏桓校尉・閻柔に従ってこれを討つ
213年頃 鮮卑の豪族・育延、5000騎を連れ、冀州の西部都督従事・梁習に商取引を要求
梁習は恨みを買うことを恐れ、承諾したが、略奪を働いた鮮卑は殺した
⇒馬具、皮革製品などを取引したと思われる。同時に、鮮卑にとっての交易の重要性が窺える
218年 代郡烏桓の能臣氐の乱→軻比能、これに呼応するが、曹彰に敗れ長城外に追いやられる
⇒軻比能は曹操に接近する一方で鮮卑内部の抵抗勢力を排除し、情勢がある程度鎮静化すると、曹操の不在を狙って優位に立とうとしたが失敗
3.魏・西晋と鮮卑
・接近と離反
220年 軻比能、曹丕に遣使→軻比能、付議王の位を授かる(資料戊)
⇒魏は呉・蜀に対抗するため、鮮卑と誼を通じたと考えられる
221年 軻比能、鮮卑に逃れた内地の民500家を送り返す
222年 軻比能、配下や烏桓3000余騎、牛馬7万頭を引き連れ、内地で交易開始
内地の民1000余家を送り返し、上谷に移住させる
223年頃 鮮卑の大人・素利、歩度根らが軻比能を攻撃→護鮮卑校尉の田豫が調停
224年 再び軻比能と素利が対立→再び田豫が調停に入る
→軻比能、魏を信頼しなくなり、田豫と親しい輔国将軍・鮮于輔に手紙を送る
曹丕はこれを知り、田豫と軻比能を和解させる
これ以降、軻比能の弓を持つ兵は10余万騎となり、略奪した財物を配下に均等になるよう分配したため、配下も大人もいっそう彼のために力を尽くすようになった
⇒魏に警戒され、のちに暗殺された要因の一つか
同年、歩度根は魏に遣使、略奪をやめる
・黄昏
226年 曹叡即位→魏、軍事行動を慎む方針を掲げる
228年 田豫、軻比能の娘婿・鬱築鞬に配下の夏舎を殺され、鮮卑の蒲頭、泄帰泥を率いて鬱築鞬を討つ
軻比能が3万騎を率いて鬱築鞬の救援に向かい、田豫軍を包囲
上谷太守・閻志(閻柔の弟)は軻比能を説得して兵を退かせる
この頃までに、鮮卑の勢力は匈奴の故地を全て征服した(史料己)
231年 蜀の諸葛亮、第三次北伐に際し、祁山で軻比能に書を送り、呼応を求める
→軻比能は呼応の構えを示したが、李厳が兵糧を送らなかったため、諸葛亮は軍を退く
233年 軻比能、歩度根と和解し、并州の支配下から抜け出させる
并州刺史・畢軌は蘇尚・董弼に軻比能らを攻撃させたが、軻比能の息子に敗れる
しばらくして歩度根、并州で略奪を行い、人民を拉致→間もなく軻比能に殺される
⇒軻比能に罪を肩代わりさせ、魏に軻比能を攻撃させようとした?
泄帰泥はこれを恐れて魏に降り、帰義王とされた
235年 軻比能、幽州刺史・王雄の刺客・韓龍に暗殺される
⇒いつ再び侵攻してくるかわからない、魏にとっての大きな脅威だったため殺された
→王雄、軻比能の弟を立て、これを後継者とする
一部の鮮卑は魏に降り、内地に移住させられる
・その後の鮮卑
軻比能の死により、鮮卑は再び分裂→有力な部族は涼州の北を根拠とした
→遼西の宇文部・段部・慕容部、陰山北部の拓跋部、河西・隴西の禿髪部・乞伏部などが出る
261年
拓跋力微、和睦のため、子の拓跋沙漠汗を洛陽に遣わし、朝貢を開始(史料庚)
⇒祭祀をめぐる内部分裂により、配下の間で不安が高まっており、虚を突かれることを恐れた
→386年に拓跋珪(拓跋力微の玄孫)が建国した「北魏」の国号の由来とされる
西晋成立後、拓跋部は拓跋力微のもと、盛楽を拠点として数万家の勢力を持ち、しばしば西晋の涼州に侵入→西晋は離間策で対抗
277年 護烏桓校尉・衛瓘、拓跋力微を破る→翌年憂悶のうちに死ぬ
同年 禿髪樹機能、涼州に侵入→平虜護軍・文淑(文鴦)に敗れる
279年 禿髪樹機能、涼州に侵入→討虜護軍・武威太守の馬隆に敗死
⇒慕容部の前燕が出るまで決定的な中国内地進出には至らず
⒋まとめ
・全体として
・頻繁に行われる内地への侵入、略奪⇒略奪物に依存していたと同時に、侵入、略奪という同一の目的のもと、団結を確認するという狙いもあったか
・後漢末期に分裂した匈奴、曹操によって事実上無力化された烏桓より確実に後漢・魏・晋にとっての脅威になっていた⇒だからこそ各王朝は離間策、刺客派遣により鮮卑に干渉をした
・漢人対異民族の構図だけでなく、異民族対異民族の構図、及び民族内の対立の構図から
→同じ民族内でも反目と和解を繰り返していた
・魏が異民族の内地移住政策に積極的だった理由
→後漢末より続く人口激減と不足状態が要因。兵力など人的資源を確保するのが目的
⇒八王の乱の際、諸王が鮮卑など内地の異民族を傭兵として雇うことで、西晋王朝の混乱と外部の異民族の進行を招き、結果的に五胡十六国時代の引き金になる
・宇文部は鮮卑に降った匈奴の末裔とされる(史料辛)
⇒民族間の壁は我々が思っているよりも薄かったのではないか。王朝にとっての敵か味方かは民族という枠組によってではなく、利害関係や各勢力のパワーバランスによって決められた
参考文献等
吉川忠夫 訓注『後漢書 第十冊 列伝八』岩波書店 2005
今鷹真・井波律子・小南一郎
訳『三国志1・2・4』ちくま学芸文庫 1993
『後漢書』中華書局
『三國志』中華書局
『晉書』中華書局
『魏書』中華書局
『北史』中華書局
三崎良章『五胡十六国
中国史上の民族大移動』東方書店 2002
金文京『中国の歴史04 三国志の世界』講談社 2004
『大辞林』小学館 1998
各史料
史料甲:『後漢書』「列伝第八十 烏桓鮮卑伝」
鮮卑者,亦東胡之支也,別依鮮卑山,故因號焉。其言語習俗與烏桓同。唯婚姻先髡頭,以季春月大會于饒樂水上,飲晏畢,然後配合。又禽蓋異於中國者,野馬、原羊、角端牛,以角為弓,俗謂之角端弓者。又有貂、【豸内】、鼲子,皮毛柔蠕,故天下以為名裘。
注:號…号 髡頭…坊主頭 于饒樂水上…饒楽水のほとりで。饒楽水は現在の遼寧省朝陽を流れる川。 飲晏畢,然後配合…宴会で酒を飲み終わってから、夫婦の契りを結ぶ。
【豸内】…猿の類 鼲子…鼠の類 柔蠕…柔らかくて温かい 名裘…高級毛皮
史料乙:『後漢書』「列伝第八十 烏桓鮮卑伝」
乃自分其地為三部:從右北平以東至遼東,接夫餘、濊貊二十餘邑為東部,從右北平以西至上谷十餘邑為中部,從上谷以西至敦煌、烏孫二十余邑為西部。各置大人主領之,皆屬檀石槐。
注:夫餘…高句麗の北、玄菟郡に属していた民族。のち、遼東太守の公孫度に服属する。
濊貊…ツングース系の民族とされる。現在の北朝鮮東部を根拠としていた。
烏孫…天山山脈北方に住んでいたとされるトルコ系遊牧民族。前漢時代に張騫が派遣されたのち、漢の西域進出に協力。
史料丙:『三國志』「魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝」
和連即死。其子騫曼小,兄子魁頭代立。魁頭既立後,騫曼長大,與魁頭爭國,眾遂離散。魁頭死,弟步度根代立。自檀石槐死後,諸大人遂世相襲也。步度根既立,眾稍衰弱,中兄扶羅韓亦別擁眾數萬為大人。建安中,太祖定幽州,步度根與軻比能等因烏丸校尉閻柔上貢獻。
注:眾…人衆 貢獻…貢献
史料丁:『三國志』「魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝」
軻比能本小種鮮卑,以勇健,斷法平端,不貪財物,眾推以為大人。部落近塞,自袁紹據河北,中國人多亡叛歸之,教作兵器鎧楯,頗學文字。故其勒禦部眾,擬則中國,出入弋獵,建立旌麾,以鼓節為進退。
注:斷法…裁判 勒禦…統率する 弋獵…狩猟 旌麾…軍旗 鼓節…指揮用の太鼓と旗
史料戊:『三國志』「魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝」
延康初,比能遣使獻馬,文帝亦立比能為附義王。
史料己:『三國志』「魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝」
後鮮卑大人軻比能複製禦群狄,盡收匈奴故地,自雲中、五原以東抵遼水,皆為鮮卑庭。數犯塞寇邊,幽、並苦之。田豫有馬城之圍,畢軌有陘北之敗。
注:數犯塞寇邊…しばしば長城の内側に侵入し、辺境で略奪を行った。
史料庚:『魏書』「帝紀第一 序紀」
文皇帝諱沙漠汗,以國太子留洛陽,為魏賓之冠。聘問交市,往來不絶絕。魏人奉遺金帛上P,歲以萬計。
注:文皇帝…拓跋沙漠汗の諡号 為魏賓之冠…魏から賓客の扱いを受けた。
帛…絹 絮…綿
史料辛:『北史』「列伝第八十六 宇文莫槐伝」
匈奴宇文莫槐,出遼東塞外,其先南單于之遠屬也,世為東部大人。其語與鮮卑頗異。