丞相の奇妙な冒険

〜陳倉城が落とせない〜

2007127日 法学部2年 ナリケン

 

一.   前書き

今日のテーマは諸葛亮の北伐の戦場考察です。年代と地域が幅広いので戦場考察と言うより、寧ろ戦略考察と言ったほうが妥当でしょう。

5回に亘る北伐の意図と魏・蜀双方の戦略について考察していきたいと思います。

 

二.   年表

227

冬?  諸葛亮、北伐に備え、漢中に駐屯。

12月 魏の新城太守孟達が反乱。

228

1月 司馬懿によって孟達の反乱が鎮圧される。

    蜀軍、キ山方面に侵攻。(第一次北伐)

    天水、南安、安定の三郡が蜀に寝返り。

    街亭の戦いで魏軍勝利。→蜀軍撤退。

2月 

9月 石亭の戦いで呉軍勝利。

10月 大司馬曹休死亡。

12月 蜀軍、陳倉を包囲。(第二次北伐)

    陳倉包囲から20日で蜀軍撤退。

229

陳式、武都・陰平に侵攻。(第三次北伐)

    郭淮の救援軍、蜀軍の建威進出により撤退。

    孫権、皇帝に即位。

230

7月 曹真、司馬懿による蜀討伐。

9月 魏軍、大雨により撤退。

    魏延、羌中へ侵攻。→陽谿で郭淮を撃破。

231

3月 大司馬曹真死亡。

    蜀軍、キ山侵攻。(第四次北伐)

    蜀軍により上邽陥落。

    諸葛亮、司馬懿と上邽東方で交戦。

    蜀軍、キ山に撤退。

    キ山の戦いで蜀軍勝利。

7月 蜀軍撤退。

    追撃戦で張郃戦死。

234

4月 蜀軍、斜谷から渭水南部に侵出。(第五次北伐)

    武功郡五丈原で魏軍と対峙。

5月 呉軍、合肥方面に進出。

7月 曹叡、楊州へ親征。

    曹叡到着前に呉軍撤退。

8月 諸葛亮死亡。

    蜀軍撤退。

 

三.   バショクショック!

●第一次北伐の流れ

@孟達の反乱。

・事前に諸葛亮と内通。

→孟達を囮にして蜀軍本隊の動きから注意を逸らさせようという策。

A司馬懿による孟達討伐。

・反乱後一ヶ月、新城包囲後16日で新城陥落。

→蜀軍進軍開始前に、孟達を利用しようとした諸葛亮の目論みは崩れた。

B蜀軍魏領内侵入。

・趙雲、ケ芝…漢中→斜谷(陽動)vs曹真

・蜀軍本隊…漢中→キ山

→孟達を利用しようとしたのと同様、今度は別働隊による陽動で、直接長安を攻めると見せかけ、本隊の動きを察されないようにした。

C天水、南安、安定の三郡の蜀への帰順。

キ山陥落の影響?

→陽動に乗って蜀軍本隊の動きを読めなかった曹真の失策。

→三郡の帰順により、蜀軍の益州外における兵站が確保された。

D街亭の戦い

・街亭の意義…蜀軍の兵站基地。

→蜀領内からの兵糧輸送が困難な蜀軍にとっては、街亭の陥落は兵糧切れ、すなわち戦闘続行不能を意味する。

・陣容

街亭…馬謖・王平・張休・李盛・黄襲vs張郃

列柳城…高翔vs郭淮

・勝敗の要因

馬謖の独断専行…水源を確保せずに山頂に布陣。

→張郃に付け込まれ、馬謖軍壊滅。

唯一山上に布陣しなかった王平が隘路で1000人の兵で耐え続けたので、伏兵を恐れた魏軍は壊走した蜀軍に迂闊に手を出せなかった。

E蜀軍撤退。

街亭の陥落により蜀軍の兵站戦が断たれたため、蜀軍は撤退せざるを得なくなった。

・撤退戦における趙雲・王平の活躍

E戦後の動向

蜀…馬謖ら敗戦責任者の処罰。

魏…曹真、三郡の反乱を鎮圧。

曹真、次期北伐に備えて陳倉城の補修を行う。

 

●第一次北伐のポイント

・孟達や趙雲を陽動として利用し、蜀軍本隊は涼州方面に進出して兵站を確保しつつ長安に進軍する。

・獲得した敵地で兵糧を確保しようとする長期的プラン。

・曹真のミスにより三郡が帰順したことにより、益州外で兵站を確保

することには成功した。

・街亭の敗北により兵站線は崩壊。蜀軍はてったいしなければならかった。

→馬謖の敗戦さえなければ、長安攻略も十分可能だったかもしれない。

最大の責任者は馬謖に戦略的要所を任せた諸葛亮?

 

四.   王双が斬られた。王双が斬られた。う〜ん。

●第二次北伐の流れ

@蜀軍散関方面から陳倉に進軍。

A陳倉の戦い

・守将の郝昭の巧みな指揮により、戦線は膠着。

20日経過した時点で蜀軍食糧切れ。

費曜らの援軍も到着したので蜀軍撤退。

B撤退戦

・追撃してきた魏の王双を殺害。

 

●第二次北伐のポイント

・第一次北伐で実行しようとした長期戦略は既に読まれている。

・より長安に近い陳倉城を確保した後、東進して短期間で長安を落とそうという戦略。

・持参の食料だけで兵糧を賄おうとする結構危険な軍事行動。

・石亭の戦い直後という出兵タイミング。

→魏は対呉戦線に兵を割かないといけないので、蜀への守りが手薄になる。

・蜀の進軍ルートは最初から曹真に読まれていた。

・郝昭強すぎ。

 

五.   ここにいるぞ!

●第三次北伐の流れ

@陳式、武都、陰平を攻略。

・漢中からお手頃な拠点を確保。

A郭淮、二郡救援のため出兵。

B諸葛亮、建威に出兵。

→郭淮退却。

C諸葛亮、漢城と楽城を建築。

・漢中防衛の要。

 

●第三次北伐のポイント

・これまでの北伐とは異なり、武都、陰平の確保のみで終了。

・二郡獲得の目的

@羌・テイ等西方異民族との連携?

A二度の北伐で失敗した諸葛亮は目に見える戦果が欲しかった?

→蜀国内の厭戦ムードの解消。

政敵、李厳への対抗。

 

六.   積極的自衛権の行使

●曹真の南征の流れ

@魏軍、三方面から漢中に向けて進軍。

・曹真…斜谷

・張郃…子午道

・司馬懿…漢水

A諸葛亮、江州の李厳に2万の兵を連れて漢中防衛に向かわせる。

B大雨で河川が氾濫したため、魏軍は進軍を断念。

C魏延、羌中へ進軍。陽谿で郭淮・費瑶(費曜と同一人物?)を撃破。

D曹真死亡

→以後魏の対蜀戦線の総指揮を司馬懿が採るようになる。

 

●曹真の南征のポイント

・魏が口火を切った初めての戦い。

・三方面からの漢中侵攻という大規模作戦。

→ただ大雨が降らなかったとしても、漢中を攻略できたかどうかは怪しい。

@子午道、漢水登りという難行軍の直後の戦闘

A漢城・楽城による漢中防衛システム

B兵站の確保が困難

大雨が降ったのは魏軍にとってある意味ラッキーだったのかもしれない。

・魏延の涼州進出は西方異民族との連携を密にするため?

 

七.   出てこなければやられなかったのに!

●第四次北伐の流れ

@蜀軍、キ山に進出。

・「木牛」なる道具を使って兵糧輸送を行う。輸送担当は李厳。

・鮮卑の軻比能と結び、北地郡でゲリラ戦を行わせる。

A司馬懿、上邽防衛のため費曜、戴陵に4000の兵を与え上邽に派遣。

・上邽は長安と涼州を結ぶ重要拠点。

B諸葛亮により上邽陥落。

→上邽周辺の麦を刈り取り兵糧補給。

C上邽東部で蜀軍と魏軍が交戦

→司馬懿は蜀軍の兵糧切れを狙って守りを固める。

D諸葛亮キ山付近の 城に撤退。司馬懿、蜀軍を追撃。

キ山の戦い

布陣

キ山本隊…諸葛亮・魏延・高翔・呉班vs司馬懿

後衛…王平vs張郃

→諸葛亮と司馬懿の正面衝突。

魏軍は戦死者3000名という大敗北を喫した。

F兵糧切れにより蜀軍撤退。木門における追撃戦で張郃戦死。

・第二次北伐と同様、撤退戦での蜀軍の強さが発揮された。

G帰国後、輸送を滞らせた李厳を免職。

 

●第四次北伐のポイント

・第一次北伐以来の長期的戦略に基づいた北伐。

・第一次北伐との大きな違いは、魏領内での兵站の確保が困難になったということ。

・蜀軍は局地的勝利を収めたものの、補給線を確保できないまま、戦線が膠着したため撤退を余儀なくされた。

→司馬懿が持久戦法を用いなかったら、涼州に兵站を求められたかもしれない。

・で、木牛って意味あったの?

 

八.   げーっ!孔明!

●第五次北伐の流れ

@蜀軍、斜谷より渭水南方に進軍。武功郡五丈原に拠点を置く。

→今までの北伐の中で一番長安に近い位置に進出。

・「流馬」という蜀漢脅威のメカニズムを利用して兵糧運搬を行う。

・司馬懿は守りを固めて蜀軍の兵糧切れを待つ。

・蜀軍は屯田を行い食料を確保。

A諸葛亮は膠着した戦況を打破すべく、渭水北部に駐屯していた郭淮に陽動を仕掛けるも失敗。

B呉軍、合肥方面に進出。

C満寵、張頴ら(+守護霊山田)の活躍により呉軍撤退。

→二方面作戦が頓挫。魏軍は蜀軍に絞って戦力運用を行えるようになった。

D諸葛亮死亡。

E蜀軍撤退。

・司馬懿は伏兵を恐れ、追撃を断念した。

・撤退中に魏延と楊儀の指揮権争いが起こったものの、大多数の武将が楊儀に付き、王平の活躍もあったため、魏延の誅殺によって決着した。

 

●第五次北伐のポイント

・呉軍との連携を期待して行われた短期決戦型北伐。

・司馬懿の引き篭もり戦術と呉軍の早期撤退により計画は破綻。

・で、流馬って意味あったの?

 

九.   まとめ

@北伐の失敗は9割方兵站の確保の失敗によるもの。

→局地戦においてはほぼ全勝しているのにも拘わらず、補給線を確保できなかったため、戦略的勝利を挙げることは出来なかった。

唯一、第一次北伐では魏領内で補給線を設定できたものの、街亭の敗戦で補給線が破壊されてしまった。

A実は蜀軍は強い。

蜀軍が魏軍に敗北したのは経験不足の馬謖が指揮を採っていた街亭の戦いのみ。上邽や 山での魏軍との正面衝突においてはいずれも勝利を収めている。夷陵の戦いで壊滅した蜀軍を魏軍に勝利できるほどの精鋭にまで鍛え上げた諸葛亮の軍事的能力は三国時代において群を抜いていると言えるだろう。

Bやっぱり諸葛亮は臨機応変の対応が苦手?

第二次北伐で陳倉に固執して兵糧が尽きてしまったこと、第五次北伐で司馬懿が持久戦法を採った際に屯田する以外に何も出来なかったことを考えると、諸葛亮は自分の描いた戦略が一度破綻すると事態に対応できなくなってしまうようだ。それでも他に蜀軍の総指揮を採れる人材がいなかったのが蜀の悲しいところ。

 

十.   参考文献

正史三国志1〜3・5 井波律子、今鷹真、小南一郎訳 ちくま学芸文庫

明帝紀・曹真伝・張郃伝

後主伝・諸葛亮伝・趙雲伝・馬良伝・李厳伝・魏延伝・費詩伝・王平伝

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