皇帝ぶぁい! ―史上最高の名君―

 

20071222

24代幹事長

 

 

【序】

 

時は1800年ほど昔の中国大陸、青い巨星のごとく現れ赤い彗星のごとく姿を消した大成帝國という理想郷が存在した。その初代皇帝は御存知、姓は袁・諱は術・字は公路と仰せられる御方である(聖人の御名を軽々しくお呼びするのは憚られるので、以下、陛下と呼ぶ)。

陛下は後漢の時代、伝説の聖天子・舜の血をひくといわれる名門・袁家にお生まれになった。字の「公」が示すように御次男であらせられ、同母兄として袁基という人物が史書に記されている。袁基氏が名門の跡継ぎとして不適格だったという記述は無いが、さすがに陛下の才覚には遠く及ばなかったのであろう。そして長幼の順を越え、偉大なる陛下が父・袁逢氏の後をお継ぎになられたのである。孝廉に推挙されていることからも、陛下の清廉さ・孝行心の篤さは確かである。

今回は、陛下(笑)が古今東西、如何に万民に愛されてきたかを示していこう。

 

──それは、とてもちいさな とてもおおきな
                とてもたいせつな あいとゆうきのおとぎばなし──

 

 

【本論】

 

では、董卓討伐戦が終わった直後から話を始めよう。

あるとき、袁紹が「劉虞を皇帝に擁立しよう」と陛下に相談したが、陛下は反対なさった。表向きの理由は「劉協に非が無い」として、あくまで董卓を討つことのみを目的とするお考えを示しなさったが、実はそれだけではなかったのである。

 かつて堯・舜・禹・嬴伯益と続いた禅譲の歴史は、禹の息子・啓の即位によって途切れ、世襲制へと移行した。陛下は、もはや劉氏の皇帝は劉協を最後に二度と存在してはならないとお考えだったのだろう。その証拠に、後に陛下が崩御された後も、ご遺族は健在だったにもかかわらず誰一人として帝位に就こうとしなかった。

 

 さて、ここから陛下の偉大なる世界戦略が実行に移されることになる。一族の恥である袁紹を懲罰するため、まずは公孫瓚と同盟(*1。次いで賊のもとから人民を解放(*2するべく、陳留に進軍なさるも、友国の怠慢により曹操・袁紹連合軍に逢い、勇退・転進(*3。以後、揚州に居を構えられる。

ちょうどその頃、陛下は孫堅の妻を保護(*4し、彼の元へ送り届けなさった。感服した孫堅は、密かに手に入れていた玉璽を謝礼として献上したのである。これが決定打となり、陛下は群臣を集め、御自ら皇帝に即位なさり、天に厄災を静め、地に民を鎮撫することを願い、天道を行く事を下問なさった。しかし、時流も見えず、過去の妄執に取り憑かれた抵抗勢力による反対にあったこともあり、敢えて儀礼に習い、一度は帝位就任を見送られる。だが世の乱れを嘆かれ、心をお乱しになること甚だしく、西暦197年ついに、天命(*5を受けられて正式に御即位。大成帝國(*6の誕生である。

 

『魏書』『後漢書』の袁術伝(*7の記述を読むと、大成帝国の領民は飢餓に苦しんでいたとある。しかし、彼らが(東アジアの某半島人のように)次々と逃亡したり、(欧州の某国みたく「オーレーオレオレオレー♪」(*8と歌いながら首都を制圧するには至らないまでも)大規模な反乱(*9を起こしたなどという記述は無い。史書が作られた国である魏・晋にとってなんら都合の悪いことは無く、隠蔽する必要など皆無だというのに。

 よくよく考えてみれば、戦乱の傷跡も生々しく未だ屯田制すら存在しなかったこの時代、陛下の大いなる徳と聡明な頭脳を以てしても、安定な食糧生産は不可能だったであろう。それだけではない。実は……

帝國の民は、過度のダイエットのせいで飢えていたのである!

この数年前、かの暴君董卓が死体に火をつけて数日がかりで燃やされるという、悲惨な最期を遂げた。陛下も、さぞかしメタボリック症候群の恐ろしさを痛感なさったであろう。若き日は諸公子らと共に飛鷹走狗に興じなさった陛下も、「寄る年波には勝てぬ」とお感じになったに違いない。以後、陛下は主治医のもと適切な食事療法を実行された。

 ところが困ったことに、下々の者たちまでもが陛下を真似てダイエットなるものを行い始めたのである。医学知識の無い彼らは、急激な食事制限のせいで拒食症に陥り、みるみる痩せ細っていった。こうして、本来ならまともな食事をできるだけの経済基盤は持っている者達までもが、次々と餓死してしまったのである。

 

 また、陛下は配下の者たちに対しても非常に寛容であらせられた。その証拠に、陛下の治世において処罰された人は皆無である(*10。軍の食糧を横流しした宰相の舒仲応や、即位に反対した閻象ですら、お咎め無し。佞臣の甘い言葉には耳を傾ける一方で忠臣の意見を退け死に追いやった、どこぞの従兄だか妾腹の兄だかとは大違いである。加えて、天下人の他聞に洩れず、陛下は人材収集に熱心であられた。彼が幕下に迎えようとなさった人物は、文武百官数多い。華歆や陳珪などは、その後の出世具合から見ても陛下の眼力が如何に優れていたか証明されるだろう。ただ、彼らの殆どは陛下の先見性を理解出来なかった。一歩先行く天才は常に孤独なものである。

にもかかわらず、当時の儒者どもの多くは陛下の英邁さを理解できず、愚者と決め付けた。彼らは伝統を重んじるくせに、斉の威王を「三年飛ばず鳴かず」の鳥に例えた淳于髠の故事を全く生かせてなかったのである。陛下の在位期間はちょうど3年。まさに当時の陛下は、飛ばず鳴かずの鳳であらせられたのだ。

 

そんな陛下の御治世のもと、帝都(*11はまさに酒池肉林桃源郷。女官たちは美しい衣をまとい、食物は上質な肉や米の数々で占められていたという。ここからも、帝國の技術力の高さが伺える。職人を軽んじる儒教国では、こうはいくまい。

しかし、陛下の最も素晴らしい政策はその経済政策である。政府自らが消費・支出することによって経済を振興し国民所得を増大させるという、20世紀のケインズ政策に似たことを陛下は行われたのである。相次ぐ増税は、もちろん過剰なバブルを抑制するためである。ぽっくんは皇帝ぶぁい!公定歩合の引き上げも忘れてはならない。2世紀の時代に1800年近く先取りした政策を実行する先見の明を、革新と言わずして何と言えばよいのだろうか?

もう一つ特筆すべきは、陛下の行ったエコロジー政策であろう。魏書によると、陛下の荒淫や奢侈により淮南一帯には何もモノが無くなったかの如くに書かれているが、それは誤った解釈であって、陛下は農薬等を使うことなく田畑の雑草害虫の類を根絶したのである。従ってこれをエコロジー政策と云っても過言ではあるまい。惜しむらくは、多くの愚民どもがその後作物を植え忘れてしまったことである。後世、中華人民共和国の建国者たる毛沢東同志が命じたスズメ狩りも、人民どもがイナゴの駆除を怠りさえしなければ米の生産量増加に繋がったはずなのだ。いつの世も、天才のアイディアは無能な大衆のせいで失敗に終わりがちなのである。

 そして、留意すべき点は『三国志』を記したのが晋の歴史家・陳寿であるという点である。晋は魏から禅譲を受けたため、魏の武帝・曹操を正統とみなしている。曹操と覇権を争った陛下の経歴は改悪されていることを考慮に入れなくてはならない。よって陛下の高度なエコロジー政策は理解されることなく曲解されたのである(*12

 

ところで、なぜ陛下はこの時期に易姓革命をご決断なさったのであろうか。漢王朝の再興を否定した点は後の周瑜や諸葛亮と軌を一にするものであり、そのことを190年代前期に構想に取り入れた点は、陛下の並々ならぬ先見性と度量の大きさを示し、そして志の遠大なることを証明している。

 陛下が在るべき姿に御昇りに成られたのが西暦197年。曹操が劉協を擁立した翌年の出来事である。諸葛亮の天下三分の計が207年。孫権が周瑜・魯粛の言を入れて曹操と雌雄を決することを決めたのが208年。これを見れば、如何に陛下が時代を先取りなさっていたかがわかる。言うまでもなく、漢王朝はこの後衰退の一歩を辿っていく。袁紹も曹操も劉協擁立前はその存在価値を否定していたにもかかわらず、結局それに縋らなければ天下を安定させることは出来ないと考えた。首尾一貫しておらず詰めが甘いといえる。それに比べ、陛下の予測力と決断力は際立っているといえよう。

 

しかし、大成帝國の繁栄は長くは続かなかった。このように未曾有の発展を遂げた楽園の噂を聞きつけ、曹操や呂布といった姦賊が度々侵略してきたのである。相次ぐ虐殺に心をお痛めになった陛下は、勝利を捨て遷都(*13を決意された。このときも、陛下は決して臣民たちを同行させようとはなさらなかった。これは董卓による後漢の遷都の悲劇に鑑みられた結果であり、また陛下の徳が及ばぬ蛮地での襲撃を危惧したためでもあるだろう。同じく青年期を任侠として過ごした劉備が、後にうわべの義侠心を優先して多くの人民を引き連れ、結果として犠牲者を増やしてしまったことから考えても、陛下の御判断は正しかったと言えよう。

 

 

確かに、皇軍が決定的な勝利に乏しいことは否めない。しかし、それ即ち天下を争う器でなかったというのは浅薄である。幾度もの大移動を余儀なくされながら、遂には宿敵を見事に打ち破った劉備や劉邦の生涯を見れば一目瞭然であろう。もし、陛下が御健康であらせられたなら、必ずや七年戦争時のフリードリヒ大王の如き大逆転が起こっていたに違いない。

また、弱軍でありながら領土が次々と拡がっていったのは陛下の徳の高さの証であるとともに、古代インドより伝来した「非暴力(アヒンサー)」の教えを取り入れた結果とも考えられる。モハンダス・カラムチャンド・ガンディーらが「非暴力・不服従」に基づくサティヤーグラハ運動で成功を収める1700年以上も前、東方の地では既に陛下がこれを実践されていたということである。

 

しかし、素晴らしい人物ほど天寿をまっとうできないのは世の常。袁紹のこれまでの数々の無礼をお許しになる(*14証として、御自ら彼のもとへ行幸なさる途中だった陛下は、 側近たちに看取られつつ崩御なさいました。『呉書』の記載によれば、陛下は最後に蜂蜜入りの飲物を所望されたが蜂蜜が無く、約2リットル血を吐いてお亡くなりになったとのことである。

――くじけそうな心に蜜水1杯 あいとゆうきのサプリメント――」じゃなかった、蜂蜜には造血作用があり、現代においては献血で貰えることもある。陛下が結核を患っていらっしゃったかどうかは定かではないが、吐血は美男子のステータス。演義における周瑜も、新撰組の沖田総司も、吐血キャラとして有名ではないか!筆者の保育園児時代からの友人N君は、中学卒業時に第二ボタンどころか学ランのボタン全部持ってかれたほどのイケメンであるが、彼は高校でガリ勉のあまり吐血したという。そう、

陛下は、容姿まで優れていらっしゃった可能性が高いのだ!

ところが誠に残念なことに、後世の三国志劇画や数々の漫画において、陛下は醜悪な容姿で描かれている。特に、「袁」の字が「猿」に似ているというだけで猿顔に描くなど言語道断!何たる不遜!

しかし、このような無礼な描写においてすら、大いに評価できる点がある。陛下は十常侍や董卓らの邪悪な笑みとは異なり、明朗快活な笑顔をなさっているのだ。これは、乱世によって傷ついた人民の心を、陛下御自ら元気付けてくださっている様子を表している。

結局、実際の陛下の御尊顔は全く知るすべもないのだろうか?否、20世紀末から三国時代にタイムスリップした、「龍の軍師」こと天地志狼氏の体験談がある。天地氏は陛下と直接面識は無いが、陛下のご息女・袁隗(*15皇太子に謁見している。孫権と同盟を結ぶため、諸葛亮らと共に呉へ行く直前のことである。彼の証言によれば、皇太子は男役の女役者のようになまめかしく、白く小さな顔には青と緑のオッドアイ。細い顎を薄く赤い唇が彩る、端正な顔の美少女であったという。娘の容貌は、父親似である事が多いという。

やはり、陛下は外見までもが美しいお方だったのだ!

 大変嘆かわしいことに、皇太子はまもなく“仲達”の手で無残にも殺害されてしまう。偉大なる陛下の子孫は、早くも絶えてしまったのである(*16

 

ところで、現代においても陛下はこの上なく庶民に愛されている。試しに「袁術 愛」でgoogle検索したら、19500件もヒット(*17

三国志漫画の王道である横山光輝氏の『三国志』では、

官渡の戦いを盛大に無視された袁紹に対し、最後まできっちり描かれた陛下

三国志大戦(*18でも、使用組み合わせが大きく制限され(本人の性格以上に)融通の利かない袁紹に対し、

プレイヤーの発想次第で、どんなデッキにも入れられる陛下!

KOEIの「三國志」シリーズでは必ず玉璽を手にし!!

「三国無双」シリーズでは、御尊顔が拝めないのに皆☆勤☆賞!!!

 

 

【結論】

 

三国志には数多くの人物が出てくる。その中には名将もいれば凡将もいる。だが、不当に低い評価を受けている人物がいるのも一片の真実である。具体例は枚挙に暇がないほどだ。その中でも特に不当な扱いを受けているのは誰であろうか?最早言うまでも無いかもしれないが、敢えて言おう!陛下その人である。

曰く帝位を僭称した、奢侈を極めるために人民から搾取した、配下に見捨てられた、孫堅に兵糧を送らなかった…なんたる醜悪!強欲!俗物!これほどの人物は三国志中を見渡してもそうそういるものではない。

これは真実なのか?!笑止笑止!笑止千万!そんなものは一握りのエリートが時の権力者に媚び諂い、聖なる唯一の歴史を汚して生き延びようとした結果なのである!この愚か極まりない行為により、我々は一人の英雄を失った!これは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ!我々が長きに渡り陛下の功績を伝えることが出来たのはなぜか?諸君!それこそ我らが三国志研究会の正しさを証明する何よりの証!真実の座標なのである!

だが、史書はそれを語ろうとしない。諸君らが愛する、親愛なる我らが陛下は穢された!なぜだ?!確かに、その歴史は落着したかに見える。諸君らはこの歴史を対岸の火事として見てはいないか?しかし、それは重大な過ちである!今こそ我らはその愚かしさを大衆に教えなければならないのだ!

幾星霜の年月の中、多くの先人達が時の寄生虫に蝕まれてきたのだ。この悲しみも怒りも忘れてはならない!それを陛下は死を以って我々に示してくれたのだ!諸君よ起て!悲しみを怒りに換えて、起てよ諸君!真実を伝えることこそが我らが使命!

ジーク袁術!大成帝國万歳!!

 

袁術、其は古よりの運命(さだめ)の名。死を司る一杯の蜜水。黒き御心は民衆の、安らかなるを護り給ふ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【注釈】

 

(*1遠交近攻は、戦国時代の名宰相・范雎以来の王道戦略である。

 

(*2あくまでも侵略ではなく、解放である。異議を唱えるものは死刑! byこまわり君

 

(*3あくまでも敗走ではなく、(ry

 

(*4決して玉璽を奪うための人質なんかじゃありませんよ。私、こう見えても寛容ですから by桂言葉

 

(*5予言書の「漢に代わるものは、当塗高である」という記述が証明している。「塗(みち)」は、陛下の諱「術」や「路」と同義

 

(*6はぁ?「実際には国号は成じゃなくてで、これは『後漢書集解』の「仲家とは劉氏の漢家や公孫述の成家のように国号である」という一文を誤解したのが原因」ですって?日本語でおk

ってか、グダグダ文句言ってるとジャンクにするわよ! by薔薇乙女第一人形

 

(*7正しくは、「列伝」ではなく「本紀」でなくてはならない。紀伝体の先駆けである『史記』においては、あの浅学で粗暴な項羽にすら、志半ばにして倒れた悲運の帝王として本紀が用意されているのである。まして、四世三公の家柄でしかるべき教育を受け、当然のごとく孝廉に挙げられた陛下なら尚更である。

陳寿は、司馬遷の爪の垢を煎じて飲むべきであろう。いや、腹を切って死ぬべきでーあるっ! by 唯一神又吉イエス・キリスト

 

(*8ole」はポルトガル語で「頑張れ」という意味らしい。ルーマニア語もポルトガル語と同じインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属するので、チャウチェスク時代に大統領府を包囲した民衆があの歌を歌っていた事実もなんら不自然なことではない…のか?

 

(*9仮に反乱っぽい事件があったとしても、それは只の盗賊ですよ。偉大なる陛下が統治なさるこの国に、反乱軍なんているわけないじゃないですか。 by 風浦可符香&趙高

 

(*10家臣の中には陛下のもとを離れる者もいたようだが、これは素性のばれたスパイが恥じて去っていったか、あるいは陛下のあまりに高度な政策についていけなくなった落ちこぼれ達が、身の丈に合う再仕官先を探しに行ったためであろう。

 

(*11帝国歌劇団および帝国華撃団が存在したか否かは、定かではない

 

(*12あるいは、「べ、別にお前なんかの政策を評価するつもりなんか無いんだからねっ!」というツンデレなのかもしれない。でーもそれって、ボクの愛なの〜 by 三塚井ドクロ

 

(*13あくまでも亡命では(ry

 

(*14陛下は最後に袁紹に帝位を譲りに行っただって?嘘だっ! by竜宮レナ

 

(*15かつて董卓に処刑された、陛下の叔父君・袁隗氏とはもちろん別人である

 

(*16「袁術の娘はその後孫権の側室となり、息子の袁燿も呉に仕官している」とあるが、全くの嘘っぱちである。所詮、日和見主義者な呉の言うことなんて信用できないんだよ。ばーかばーか、孫一族なんて軟銀行(ソフトバンク)正義(まさよし)みたいに禿げちゃえ禿げちゃえ by シャナたん

 

(*17なお、「袁紹なら42200件、諸葛亮に至っては344000件だ」などと無礼な物言いをする者は、不敬罪でエスカリボルグ100叩きの刑に処す。

それに、「陛下 愛」なら122万件なんだよ馬鹿野郎。つまり、陛下への愛は万の言葉を以てしても表現できないんだよバカヤロウ by南千秋

 

(*18三国志大戦23に関してはシラネw

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【参考資料】

 

並木敏『龍狼伝外伝2』講談社 1997

『袁術賛歌』早稲田大学三国志研究会 2002

『争点公路』早稲田大学三国志研究会 2004

『愛せよ袁術』早稲田大学三国志研究会 2005

『真・CHINA WARS episode ∞』早稲田大学三国志研究会 2006

Google  http://www.google.co.jp/

Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/

偽黒武堂の三国志探訪 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/

 

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