INFINITE JUSTICE

―後編― 仁義無き戦い

20061214日 法学部1年 ナリケン

一.前書き

今回のテーマは潼関の戦い後の涼州における馬超と楊阜達反馬超連合の争いです。三国志の中でも非常にマイナーな場面で、横山三国志ではもちろん完全カット、蒼天ですら殆ど扱われていません。無双では4猛将伝で初めて扱われたものの、馬超と徳のすれ違い(蒼天のパクリ?)に焦点が当てられている為、どのような戦いだったか分かりません。このようにあまり注目されない場面なのですが、その凄惨さは徐州大虐殺に次ぐ程です(多分)。そこで、今日は改めて、三国志の面白さ悲惨さを実感していただこうと思います。かなり紹介レジュメっぽくなりますが御了承ください。

 

二.夏侯淵進撃

211年冬

夏侯淵、朱霊、ユビとケンの族を平定。

曹操、夏侯淵、徐晃が安定の楊秋を包囲。降伏させる。

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曹操、鄴に帰還。

夏侯淵、朱霊、路招らを指揮して長安に駐屯。

夏侯淵、南山の劉雄(鳴)を撃破。

夏侯淵、コの梁興を撃破。

 

三.涼州参軍事楊阜の進言

「馬超は韓信・黥布のような武勇をもち、羌族の心をよくつかんでおりま す。もし大軍が引き上げたあと、彼に対する防備を厳重に行わないならば、

上の諸郡はわが国の領土ではなくなるでしょう。」

安定平定後、鄴に帰還しようとした曹操に対する楊阜の進言。

→しかし、曹操は対馬超の備えを充分にしなかった。

 

四.馬超復活

2121

馬超、山一帯(涼州)を支配下に置く。

蛮族(羌、)の協力。

馬超、涼州州都の冀城を包囲。

馬超軍+楊昂(張魯配下)軍10000

韋康(涼州刺史)軍1000余(参軍事の楊阜、趙昂も参加)

韋康、長安の夏侯淵に援軍要請の使者を送るも途中で馬超軍に斬られる。

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韋康、楊阜らの諌めを聞かず、馬超軍に降伏。

馬超、涼州刺史韋康及び冀の太守を殺害。

馬超、楊阜の従弟楊岳、趙昂の息子趙月らを人質にする。

馬超、長安から救援に駆けつけた夏侯淵を撃破。

 

五.楊阜雌伏

楊阜、妻の死を理由に休暇を要請。

楊阜、歴城で外兄の姜叙(撫威将軍)と対馬超の謀議を行う。

・姜叙の母が主導?

→協力者

冀城…姜隠、尹奉、ヨウケイ、孔信、趙昂

武都…李俊、王霊

安定…梁寛

南安…趙ク、

参軍事趙昂の妻、王異は馬超の妻、楊氏と接触し、夫を馬超に信用させ 

 ることに成功した。

 

 

六.復讐の時

2129

楊阜、姜叙、ロ城で挙兵。(冀城から馬超をおびき出すための策)

趙昂、尹奉は祁山を守備。

→趙ク、馬超にロ城攻撃を進言。

馬超、ロ城へ進軍。

趙ク、梁寛が人質となっていた楊岳を解放し、冀城を占領。

馬超の妻子を殺害。

→馬超、涼州における根拠地を失う。

馬超、急遽軍を転進させ無防備の歴城を攻撃。占領する。

→“首謀者” 姜叙の母を殺害。

反馬超軍、馬超を撃退。

馬超、漢中へ逃走。

 

七.不毛な戦い

馬超、張魯の支援を受けて祁山を包囲。

姜叙、長安の夏侯淵に救援要請。

夏侯淵、独断で援軍を派遣。

先鋒は張郃(5000)、後詰は夏侯淵自身

馬超、張郃の援軍の知らせを聞くと、交戦前に漢中へ逃走。

214年、成都包囲中の劉備に招かれて蜀へ。

 

八.おまけーその後の韓遂

潼関で敗れてコウ中へ逃走。

コウ中で女婿の行に襲われる。

羌族の元へ逃走。顕親に駐屯。

夏侯淵襲来の知らせを聞いて略陽に逃走。

夏侯淵に襲われた長離の 族の救援に赴くも敗北。

西平の郭憲の元へ敗走。

部下に殺される(病死?)。首は曹操の元へ。

九.まとめ

10倍の敵を相手に半年以上篭城した楊阜達は見事。

馬超は人心掌握が苦手?

ついでに城攻めも苦手?

 

十.後書き

事前にレンさんが指摘されたように戦場“考察”はムリでした。

韓遂の最期を入れたのは苦し紛れです。

とはいっても昔から潼関で敗れて張魯を頼るまでの馬超の動向は気になっていたので、今回正史を読んで勉強できたのは私にとってはいい収穫になりました。

 

十一.参考文献

正史三国志1−4(ちくま学芸文庫 今鷹真・井波律子・小南一郎訳)

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