偉大なる文帝陛下の御悪行

             2006114日  法学部1年 ナリケン

 

一.初めに

今日は文帝の悪行エピソードの数々を紹介したいと思います。文帝といっても司馬昭のことではありません。魏の初代皇帝曹丕です。彼は宦官の政治介入や密告を禁止したり、九品中正法という人材登用法を定める等、政治の安定化を図った典型的な名君です。しかし一方で、彼の悪辣さを示す多数の逸話が存在します。曹丕の悪行エピソードを調べ、何故逸話が多く存在するのか考察する。それが今回の発表のテーマです。各エピソードのタイトルは気にしないでください。

 

.正史本文におけるエピソード

陳寿が書いた三国志本文から集めた逸話です。

@ねんがんのおういけいしょうけんをてにいれたぞ 被害者…楊俊

人物鑑識の名手、楊俊は曹操に後継者選びの際に意見を求められた時、曹丕と曹植の二人の長所を述べた上で、曹植の方が立派であると言った。曹丕はそれを根に持っていたらしく、楊俊が太守を務めていた宛を行幸した際に、「市場が繁盛していない」ことを理由に彼を逮捕、処刑しようとした。楊俊は自殺した。

A愛に殉じた男 被害者…夏侯尚

曹丕は夏侯淵の従子の夏侯尚を目にかけていて、彼と親しく付き合っていた。夏侯尚は曹氏の娘を正妻としていたが、実際に好きだったのは愛妾の方で正妻とはうまくいっていなかった。曹丕はそれを知ると、刺客を放ってその愛妾を殺してしまった。夏侯尚は悲しみのあまり病気になって精神に異常をきたし、挙句の果てには墓を掘り出して愛妾の顔を見るという、ありさまだった。その翌年夏侯尚は重態となって洛陽に帰還し、そこで死亡した。

B金の切れ目は命の切れ目 被害者…曹洪

曹洪は金持ちだったが吝嗇だった。曹丕は若い頃曹洪に金を借りようとしたが断られた。曹丕はそのことをずっと根に持ち、皇帝即位後に曹洪の食客が法に触れたことを口実に、曹洪を投獄して処刑しようとした。臣下達は皆助命嘆願をしたが、曹丕は聞き入れず、結局曹丕の母である卞夫人が妻の郭夫人を脅して何度も懇願させたことで、曹洪は免官と領地削減で釈放された。曹叡の時代に、曹洪の地位は回復された。

 C我が生涯に十片の悔いあり 被害者…于禁

219年に関羽が樊城の曹仁を攻めた時、救援に出向いたのが于禁と廰徳である。しかし、長雨によって漢水は氾濫、求援軍は水没した。当然関羽と戦えるわけもなかった。廰徳は最期まで戦い死亡したが、于禁は関羽に降伏した。関羽が死亡した後は呉に住むようになり、曹丕が皇帝に即位した際に魏に送還された。曹丕は于禁に会うと、彼を許し安遠将軍に任命した。しかし、于禁が曹操の墓に参拝した時に曹丕の真意が明らかになった。曹丕は墓の壁に、勝利した関羽と怒る廰徳、そして降伏する于禁の絵を描かせていたのである。それを見た于禁は恥ずかしさと怒りのあまり、病死した。

D     女は顔だ 被害者…甄夫人

204年、曹操軍が審配の守る鄴を攻め落とした時、曹丕は絶世の美女と噂されていた袁熙の妻、甄夫人を妻にした。彼女は曹丕の寵愛を受けて後に皇帝(明帝)となる曹叡と一人の娘を産んだ。しかし220年に曹丕が皇帝になったあたりから状況は変化した。曹丕の気持ちが郭夫人(字は女王)ら他の側室たちに移ってしまったのである。甄夫人は失意に陥り怨み言を言った。それを知った曹丕は立腹し、翌年使者を派遣して、甄夫人を自殺させた。甄夫人の死後、郭夫人が皇后に立てられた。

 「漢晋春秋」によると、甄夫人は死後、振り乱した髪で顔を覆われ、ぬかを口につめこまれて埋葬された。曹叡は皇帝即位後にそれを知ると郭夫人を殺して埋葬は甄夫人の時と同じようにしたという。

 

三.裴松之注におけるエピソード

 裴松之が付けた三国志の注から集めた逸話です。

@どくろイーター 出典…魏略 被害者…王忠  

王忠といえば、袁術の死後に徐州で反乱を起こした劉備を劉岱と一緒に討伐しにいったものの、あっけなく負けた人物である。王忠は若い頃、動乱に巻き込まれた際に、飢えに苦しんで人を食べたことがあった。その後、彼は曹操に帰順し中郎将に任命された。当時五官将だった曹丕は王忠の過去を知ると、芸人に墓場から髑髏を取ってこさせ、王忠の馬の鞍に結び付けて笑い者とした。

Aいじめは続くよどこまでも 出典…魏略 被害者…張繍 

 張繍はかつて曹丕の異母兄の曹昂といとこの曹安民を殺した。彼は官

 渡の戦いの直前に賈詡の進言に従って曹操に降伏した。その後彼は官

 渡の戦いや華北平定において活躍したが207年の烏桓討伐の途中で死

 亡した(病死?)。しかし、魏略によると曹丕は張繍がたびたび頼み

 ごとをしにくるのに腹を立て、「君は私の兄を殺したくせに、どうし

 て平気な顔をして人に会えるのだ。」と言った。張繍は不安を感じて

 自殺してしまった。

 

四.三国志以外のエピソード

 世説新語や三国志演義から集めた逸話です。

@森のくまさん首吊り自殺 被害者…曹熊

演義第79回より。曹丕の弟(実弟)の曹植と曹熊は曹操の葬儀に参加しなかった。曹丕は魏王に即位すると、二人に問責の使者を派遣した。すると罪を恐れた曹熊は首を吊って自殺してしまった。ちなみに吉川三国志では曹熊が葬儀に参加しなかったのは病気のためということになっている。

A放蕩息子 被害者…曹植

演義第79回より。問責の使者が到着した時、曹植は側近と一緒に酒を飲んでいて曹丕を馬鹿にし、使者を追い返した。怒った曹丕は許褚に命じて彼らを捕らえさせ、側近の丁兄弟を殺して曹植も殺そうとした。一時は母の卞夫人の嘆願で命は助けようと思った曹丕だったが、華歆の進言で天下に名高い曹植の詩才を試し、失敗したら殺すこととなった。まず曹丕は七歩で詩を作るように命じたが、曹植は見事な詩を作り、曹丕や群臣を驚かせた。次に曹丕は「兄弟」をテーマに即興で詩を作るように命じた。曹丕は曹植の作った詩に涙し、処刑は取りやめたが位を引き下げた。

Bさらばだ強敵よ 被害者…曹彰

世説新語より。曹丕は弟(実弟)の曹彰の剛勇を恐れていた。卞夫人の部屋で二人で碁をうち、なつめを食べた時、曹丕はなつめのへたに毒を仕込んでおき、自分は毒の入っていないものを選んで食べた。曹彰に毒がまわると卞夫人は井戸で水を汲んで飲ませようとしたが、事前に曹丕がつるべを壊させておいたために水は汲めず、曹彰は死亡した。

 

.考察

 何故、曹丕の悪行エピソードは多いのか?

@漢王朝を最終的に滅ぼしたから。

世説新語が成立した南北朝時代や三国志演義の原型が作られつつ あった元代は非漢民族が強い力を持つ時代だった。人々は民族の原点とも言える漢王朝を神聖視し、劉氏である劉備の蜀漢を正統とした。従って献帝から帝位を奪って漢王朝の幕を引いた曹丕が悪人とされるのは当然である。

A皇族を冷遇したから。

 曹丕は漢代に外戚が強い権力を握ったことを踏まえて、徹底的な皇族 

 弱体化を図った。魏において皇族は王や侯の地位は与えられたものの、

 それは名ばかりであった。そのため曹丕には家族に冷たいというイメ

 ージがまとわりつき、弟いじめのエピソードが作られたと考えられる。

B本当に性格が悪かったから。

今回正史を読んで気づいたのだが、曹丕の悪行の中でも有名な于禁憤死や曹洪投獄、甄氏自殺は全て陳寿が書いた三国志本文に掲載されているのである。三国志は晋を正統な王朝とするために、その前王朝である魏を正統としている。その正統な王朝の創始者を逸話を作ってまで悪く書こうとするだろうか(反語)。従って、曹丕が陰湿なのは紛れも無い事実であると結論付けられる。

 

.参考文献

 正史三国志1−4 ちくま学芸文庫 今鷹真・井波律子・小南一郎訳

 三国志演義(下) 平凡社 立間祥介訳

 新訳漢文大系第78巻世説新語(下) 明治書院 目加田誠著

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