真・CHINA WARS

~episode 1洛陽は燃えているか~

20051129

商学部2年 レン

1.ぷろろーぐ

西暦190年、中央を掌握し暴虐の限りを尽くしていた董卓を倒すため、反董卓連合が結成された。この戦いこそが群雄割拠の幕開けとなったといえる。演義ではピーチボーイズが活躍するのだが実際はどのような戦いだったのか。演義と正史の違いから今回はそれを追っていきたい。幾分結果論になりがちなのはご容赦をm(__)m

 

2.時の流れ

   今更な気もしますが基本的な筋としては

   演義                正史

曹操の偽勅             曹操決起

    ↓                  ↓

  諸侯決起・袁紹が盟主に       諸侯決起・袁紹が盟主に

    ↓                  ↓

  汜水関の戦い            長安遷都・洛陽炎上

    ↓                  ↓

  虎牢関の戦い            曹操敗走・孫堅の活躍・内部分裂

    ↓                  ↓

  長安遷都・洛陽炎上         董卓、函谷関へ撤退

    ↓                  ↓

  曹操敗走              孫堅洛陽進駐・撤退

    ↓                  ↓

  連合解散              董卓長安へ撤退・連合消滅

    ↓                  ↓

  192年 董卓自滅          左に同じ

   

今回は上記の順番で行われたとして考察していく。

しかし、孫堅伝と董卓伝では時系列的にわかりにくい点が多く、検証の余地があるかと思われる。早い話、間違ってたらごめんなさい。

3.なぜ戦わなければいけないんだ

   そもそも、彼らはなぜ戦ったのだろうか。もちろん董卓の暴虐を止めるためというのもあるだろう。演義では本当にそれだけのために戦っている。しかし正史を紐解いていくと別な側面も見えてくる。それは関西軍事勢力vs関東文人勢力の激突という点である。

   元来、関西・涼州などは異民族の影響などで軍事的な人物や軍閥が優勢だった。しかし中国は古来から文人優位の国である。基本的には協力し合っているとはいえ、武人と文人の対立は世の常である。

  

4.巨○vs○神

そのことを考えるとこの戦いにもそのような点が見えてくる。関東諸侯の顔ぶれを見ると、文官の一族によって形成されているといってもよい。また、董卓とは緊張関係にあった皇甫嵩の動向からもそれが伺えるだろう。長安遷都後の董卓がまだ洛陽にいた時、皇甫嵩は長安にいた。実力も人望も兼ね備えた彼が関東軍に同調すればどうなっただろうか。しかし彼は董卓の命に従い、結果として和解している。

この動きも、彼が関西出身であることを考えれば納得できるのではないだろうか。

以上のことからこの戦いが正義と悪の戦いではなく、関東、関西の両勢力の争いであるといえるだろう。演義で書いてあるように馬騰が反董卓連合に参加するなどということはまず考えられないだろう。また実際の先頭の様子からもそれがわかるだろう。

 

5.都は西北

   演義では劉備たちの活躍で追い込まれた董卓が暴挙に出たということになっている。しかしコレは本当の暴挙である。相手の矛先をそらし、内部分裂を起こさせる狙いと言っているが、虎牢関という要害に立て篭もっていた董卓軍がそんなことをする必要は無い。

兵力が互角という時点で要害に篭っている側が負けるケースはかなり少ない。おまけに内部分裂を当の昔に起こしているのである。連携しての総攻撃など不可能なうえ、寄せ集めの遠征軍である以上兵糧問題が起きるのは確実。洛陽を燃やさなくとも専守防衛に徹していれば勝手に連合は崩壊していただろう。ここら辺に能力の限界と没落の兆しが見えるだろう。

一方の正史では諸侯の決起に恐怖したから遷都を行ったとしている。が、そんなわけが無い。あくまでそれを建前にして、皇帝を自分の勢力圏内に確保したかったものと思われる。自軍の兵の強さは折り紙つきなうえ、相手の兵力は互角だが所詮寄せ集めで内部矛盾を抱えていたのである。恐れる理由は無かっただろう。事実、諸侯は「会議は踊る」を実践しただけだったのだから。

だが、洛陽を燃やす必要性がどこにあったのだろうか。住民を避難(?)させて長安の地盤の底上げを狙うというのはわかるが、だからといって洛陽を使い物にならなくしてしまうのは、中原進出の際の重要な拠点を自分で潰してしまうのと同じことである。董卓はその後の天下統一事業をどう展開する気だったのだろうか。また、遷都の際に中産階級を破壊したのは問題だろう。洛陽炎上の件は明らかにミスである。

 

6.漢たちの挽歌~虎狼編~

   演義では大活躍する誰かさんたちだが、実際は何もしてない。まぁ、存在が罪にはならないのでいいですけど。実際に戦った記述があるのは曹操、孫堅、そして王匡である。そのうち勝ったのは孫堅だけ。

全体的に正面衝突っぽいことしか記されていないこの戦役の中で、数少ない作戦的な記述が記されている戦いがある。それは董卓軍vs王匡。董卓軍は交通の要所を押さえていた王匡を打ち破るのに実にすばらしい作戦を用いている。

王匡は洛陽北東の孟津に進駐していた。ここを抑えることによって、洛陽以東の董卓軍への水上輸送を絶つことが出来、成皋などに存在する部隊を孤立させることが可能だったからである。先にしっかり確保しておけと思わなくも無いが、ともかく奪回に向けて董卓軍は動き出した。まず誘いの罠として正面から兵を向けて王匡軍を引き付けておき、その一方で精鋭を孟津西の小平津から渡河させ、背後から襲わせるという鮮やかなものだった。誰が進言したのか非常に興味がある

他の諸侯が戦わない中、孤軍奮闘したのは孫堅である。彼についても詳細は後ほど。さすがに彼は戦上手で董卓も彼を恐れたと記されている。孫堅は一度敗北を喫したものの、華雄を討ち取るなど快進撃を続け遂には洛陽城下に至った。そのために遂に董卓は洛陽の完全放棄を決定したのである。

しかしそれは早計だったのではないだろうか。野戦で敗北したからといって篭城戦という選択肢を放棄することは無いだろう。篭城側は3倍までの兵力差なら戦えるとはよく聞かれることである。お互いに数万人としか表記されていないので詳しくはわからないが、そうそう兵力差があるとは思えない。補給面で考えても、背後の地盤が固まっている董卓と、相変わらず袁術が兵糧を管理している遠征の孫堅では、長期戦になればどちらが有利か一目瞭然である。孫堅に和解の使者を送るくらいなら、もう一度袁術に離間の計を仕掛ければよかったのである。

だが結果として彼は撤退という方法を選んだ。彼は中原への拠点から完全に離れるデメリットなどを考えなかったのだろうか。董卓は自分から自滅戦略をとっていったように思えてくる。

   一方の連合側も不手際が目立つ。曹操の言うとおり積極的に拠点を抑えようとは思わなかったのだろうか。総大将の袁紹の能力が窺える気がする。どちらにせよ、彼自身も内輪もめを起こしていたから実行には移せなかったような気もするが。袁術が兵糧を送らなかったというのも、連合側が一枚岩でなかったという良い証拠である。結果として董卓に生きながらえるチャンスを与えたのは某兄弟といえる気が・・・しませんか?結局、彼らは名目だけの集まりであって、自軍の利益しか頭になかったということだろう。おまけに、董卓から切り取るのではなく、味方の中から削り取っていくというなんとも後ろ向きな考え方である。

 

6-2.漢たちの挽歌~姦雄編~

   演義では徐栄にやられただけであまり活躍してなさそうにも見える曹操だが、優れた戦略&戦術眼を見せ…ず、どちらかというとセオリー通りの戦略展開を行おうとしている。ようは活躍していないのである。

 

 6-2-1.若さゆえの過ち

演義では曹操が洛陽から長安へ逃げる董卓軍と、洛陽の「東」で戦っているが気にしない。実際にはまだ董卓が洛陽にいるときなので・・・というわけで実際の動きを。

まず、成皋という拠点確保を狙って進軍するという作戦を提示した。悪くはない。だが、これは狙いが判り易すぎた上に曹操らしくない負け方をした。詳しい数はわからないし、曹操の負けを弁明するための記述にも見えるが、滎陽の汴水で徐栄と曹操が戦ったのは事実と思われる。ここで気になる記述は「徐栄と遭遇」「少数の軍勢」という点である。

連合軍の中枢が拠点として使えるような地点なら、董卓側にしてみれば渡したくない拠点だとも考えられる。当然それなりの備えがしてあったはずである。事実徐栄を大将とする一軍がそこにおり、曹操を迎撃している。

そこで気になるのが「遭遇」という記述である。なぜ「遭遇」なのか。日本語の解釈の違い、という元も子もない考え方もあるが・・・あくまで推測の域を出ないが、おそらく徐栄は成皋に駐屯しており、曹操が向かってくるという情報を手に入れた上で軍勢を引き連れて曹操を迎撃したのである。だからこそ数の有利を生かして戦うことが出来た。とするとまんまとそれにやられた曹操は徐栄が来ていたことを知らなかった、ということになる。だからこそ「遭遇」ということになる。仮に遭遇ではなかったとしても何の策もなく寡勢で多勢にぶつかっていった以上情報の質か、認識が悪かったのである。

少なくとも優良な情報の有無が「少数の軍勢」で攻め込むという状況を生み出したといえるのではないだろうか。とはいえ、重要拠点なのだからそこにはそれなりの軍勢がいることも想像できたはず。ましてや曹操のような軍略家ならなおさらのこと・・・若さゆえの過ちだったのだろうか。

一方で、手に入れた情報を有効に生かし、攻撃を仕掛けた徐栄も中々のものである。

 

6-2-2.董卓包囲網

   敗北を喫した曹操は連合の本拠である酸棗に戻り、新たな作戦を提案する。それは董卓包囲網というべきものであった。袁紹は洛陽北方の河川ルートの拠点である孟津を押さえ、その他諸侯が洛陽東方の成皋から洛陽の南側の拠点を、そして袁術は洛陽南西を押さえてそれぞれ確保。あとは広く天下に自分たちの正義を訴え、不参加の諸侯の協力や、相手側の綻びを待つ。というもの。

   ・・・無理。さすがに却下された。それが出来るのなら苦労はしない。現実味が無い作戦である。本拠地の防衛戦である董卓と違い、諸侯は遠征軍なのである。兵糧や本拠地の政策・統治などをどうしろというのだろうか。董卓軍には優秀な騎馬隊が数多くあるのだ。補給路を急襲されて各個撃破が関の山だろう。どちらにせよ諸侯が協力してくれると考えていたのなら曹操は甘いと言わざるを得ない。もちろん、連合から上手く抜け出すための演義とも考えられなくも無いが・・・当時の曹操の心中はどうだったのだろうか。

   その後の曹操は自分の兵力補給に精を出すようになり自立への道を模索するようになるのだが、それはまた別な話。今回の彼の出番はここまでである。

 

6-3.漢たちの挽歌~江東の虎編~

   演義ではいまいちな存在だったが、史実の反董卓連合の中で唯一圧倒的な強さを見せたのは孫堅だった。董卓自身も「ただ孫堅だけが人物」というニュアンスのことを述べている。着実に兵力を増強しながら、尚且つ、自分の領土ではないにせよ地均しをしながら進軍してきているのだからさすがである。結論から言えば42敗。遠征軍であることや、総兵力、土地勘などの点を考慮に入れると、実にすばらしい戦績である。結果的には董卓を長安まで追いやったのは彼一人の功績といっても過言ではないのだから。

 

6-3-1.洛陽への道

   地名や時期が不明確なため断言は出来ないが基本的には洛陽への直線(街道)ルートを通ったと考えられる。一度は徐栄に敗れたものの、兵員を増強し、今度は胡軫・呂布を破った。この一戦に関して言えば董卓の人選ミスというのが正しいだろう。勝手に足を引っ張り合って退却した上に追撃まで喰らっている。なぜ徐栄を使わないのか・・・

   しかし今度は董卓の総攻撃を受けて敗走する。このときに華雄がいたかはわからないが演義でも描かれた敗戦の話である。ここで気になるのは「総攻撃」という言葉。どの程度の規模かはわからないが、数万の軍勢だった孫堅軍を潰走させたのだからかなりの規模の攻撃だったと考えられる。この作戦を行ったのは英断だろう。これは他の関東諸侯が動かないと判断し、最強の敵を孫堅と見定めた上で起こした軍事行動だということである。のちに曹操が徐州の劉備討伐に赴いたのと同じ発想であるといえる。

   だがそれでも孫堅は立ち直った。敵の離間計や、懐柔策もはねつけ遂には董卓本隊も大谷で撃破。このまま洛陽に至るかに思われた。

 

6-3-3.ごめんなさい

   ここまで順調に進んできたが深刻な問題が発生する。史書が食い違っているんですよ!えぇ、シリアスモードに疲れました。ジョークはともかく、後漢書の董卓伝と孫堅伝で話が食い違っているのである。

   まず孫堅伝では

孫堅大谷到着→長安遷都・洛陽炎上→董卓函谷関入り→孫堅洛陽入城→撤退

 一方後漢書の董卓伝では

董卓大谷で敗走→董卓澠池に駐屯→呂布洛陽で孫堅に敗れる→孫堅洛陽入城→孫堅函谷関へ出兵、董卓の背後を立つ→連合解散後董卓、長安へ帰還

 私にどうしろと?そもそも洛陽炎上のタイミングがおかしい。諸侯が決起した直後のはずなのに・・・まさかわずか1ヶ月で長沙から進軍したとでも言うのだろうか。それは物理的に無理な気がする。また、もし孫堅が董卓の背後を絶っていたというなら諸侯にとって千載一遇のチャンスである。動かないのは不自然だろう。

 で、こじつけ考えられるのは以下のようなもの。まず孫堅が董卓本隊を破る。そして董卓は澠池に駐屯。一方孫堅は洛陽を攻略、その間に部隊を残して董卓は函谷関入り。孫堅が函谷関に向けて出兵するも兵站等の理由から撤退。・・・ほら繋がった!あながち空想ではないだろう。むしろ董卓が背後を立たれて孤立するような位置にいつまでも駐屯はしないだろう。野営じゃ美人もいないし。

 董卓はなぜ軍勢を率いて洛陽に立て篭もらなかったのだろうか。内部の備蓄が少なかった、としたらやはり、炎上させて物品を長安に移してしまったせいだろう。それさえしなければ決して負けない戦だったはず。なんにせよ連合最大の殊勲者は孫堅であるといえるだろう。

 

7.まとめと雑感など

  自分にしては珍しく長いですな。まとめは・・・特になし(マテ)いや、何て言うか検証みたいなもんですからね。まぁ、

  1.実は軍閥勢力と文人勢力の争いだった・・・っぽい

2.遷都はともかく、洛陽放棄は戦略的ミス

3.董卓は持久戦を取るべきだった

4.結局連合側には協力して云々という考えはなかった

5.曹操はまだ若かった

6.孫堅は強かった

7.徐栄は強かった

8.全体的には董卓側が優位に進めていた

   といったところでしょうか。もちろん董卓没落の原因は貨幣の問題や、女の取り合いなど他にも色々あるわけですが、今回はあくまで戦役に絞り、きれてないけど絞って考えました。なんていうか、何かやれよお前ら。みたいな感じですな。本当はもっとこう、戦術的なこともやりたかったのですが、そこら辺オーソドックスなんですよね。連合側は所詮寄せ集め。孫堅は見事ですね。さすがは統率98の男。

   一方の董卓もアホでしょう。上手くいけば後の曹操のような立場を掴めたかもしれないのに。洛陽炎上が全ての敗因であるといっても過言ではないでしょう。戦略的なビジョンが悪すぎる。兵自体は強かったはずなのに。だって、徐栄とか徐栄とか、呂布とか、張遼とか張遼とか張遼とかいたんですよ?東にはある程度の戦力を置いといて対孫堅に全力を注いでいれば・・・と思う今日この頃。まぁ、それが出来ないから歴史の敗者になったんでしょう。

何もまとまってませんが、今回はこれでオシマイです。ちなみに次回予告はしません。だって守れたことないし。とりあえず、自分のやりたかった戦略&戦術的なことがやれて良かったですよ。

 

参考資料:

陳寿著 井波律子・今鷹真・小南一郎訳 三国志Ⅰ~Ⅲ 筑摩書房 1992

范曄撰 吉川忠夫訓注 後漢書 第八冊 岩波書店

中国歴史地図集 第三冊 地図出版社出版

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