20054

発表者:レン

逃れの町

 

人は城、人は石垣、人は堀…人在ってこその国

今でこそ邪魔なくらい人の多い国も遠~い昔人口が激減した時代があったそうな

それは後漢末~晋のいわゆる三国時代のこと

なに?他にもある?…三国研だからいいの!

そんなこんなで今回は人口の話です

 

何人いたの?

知りません(ヲイ)ふざけているわけではなく当時の記録が無いので正直に

減少した理由は戦死・飢饉・戸籍の消失etc

A県で100人病死=A県からB県に100人引越し行方不明

→結局よくわからない

戸数中心の表記

→世帯平均人数が重要になってくる

 

言葉の魔術

「戸」という概念

「三人家族も八人家族も一戸」

ここに解釈の余地がある

ここからは仮定で

A県に100戸 1戸につき4人と想定

戸数:100 総人口:400 世帯平均人数:4

とすると

 

戦乱・飢饉の場合

上記の理由により一家で二人づつ死亡したとすると

戸数:100 総人口:200 世帯平均人数:2

戦乱や飢饉では戸数が変わらない場合がある

出兵した夫が戦死したところで戸数は変わらない

人口や世帯平均人数は変化する

 

流浪逃亡の場合

基本的に租税からの逃避や戦乱回避等が挙げられる

一家で逃げるのが普通と考えられる

ここで全体の半数が逃亡したとすると

戸数:50 人口:200 世帯平均人数:4

流民化では世帯平均人数は変わらず戸数は減る

 

以上のことからわかるようにどちらにせよ統計上の人口は減る

人口の変化の比較だけでは無意味と考えられる

飢饉で一家全滅も充分有り得るので戸数だけでも無理

限度はあるが世帯平均人数の変化のほうが単独で見るよりはよい

参考資料 イ 参照

まぁ、かなり極端な例ですが…

 

…ホントですか?

後漢と晋の間で参照できるものを一つ発見

崔林伝のなかで孟達が

「涿郡は戸数三千、その半数が孤児と未亡人だけの家」と言っている・・・①

涿郡の変移は

後漢時代→戸数十万二千二百一十八,口数六十三万三千七百五十四(6.2口/戸)・・・②

魏→戸数三千

晋代→武帝置國,封宣帝弟子綏為王。統縣八,戸一萬一千・・・②

信憑性はともかく(特に裏切り者の発言)以下はこれを元に単純計算

 

孤児と寡婦

孤児と寡婦だけで家が成り立つのか?

兵役や租税を負担できるようには思えない

漢の時代は復という保障制度があった→曹操も実施した記録あり・・・③

よって成り立つ…んでしょうきっと

孤児は孤児、未亡人は未亡人or夫及び父をなくした母子?

 

後漢書郡国史:戸数102218、人口633754人、世帯平均人数6.2

34分の1にまで減少

仮定その1

3000戸の半数、1500戸の世帯平均人数を2人(孤児と未亡人)

残り半数をそのままの6.2

全人口12300人 世帯平均人数4.1

世帯平均人数だけみると3分の2程度

もし各世帯がこの通り減少した場合→419095

かなりの格差

仮定その2

実際には戦死・飢饉によりもっと減少していた可能性もある

一家3人に減少したとすると

全人口7500人 世帯平均人数2.5

この通りの変化では→255545

やはり差は大きい

 

仮定その3

戦死・飢饉で6.2人のうち死亡したのは誰か一人!

全人口17100人 世帯平均人数5.7

これならどうよ?!→582642

…拡がりました?

 

仮定その4

孤児は一人、未亡人は一人、おまけに戦死・飢饉で働き手一人だけが運良く残った!

全人口3000人 世帯平均人数1人

推して参る→102218

差は小さいですけど…郡じゃないよなぁ

 

結論…そして誰もいなくなった

上の仮定では戦死者や飢饉だけでは説明できない差があります。では人数差分の方々はどこへ逝った行ったのでしょう?上のかなり意図的な記述では戦死・飢饉しか考えていないんです。そう、一家揃ってライジングサンのお世話に、もとい、兵役・租税・戦火や凶作から逃げ出して流民になったのです。

仮定1の場合でみると戦死・飢饉214659人と比べ流民は406795人、戸数換算で65612戸分。圧倒的なウェイトを占めていると考えられます。これで計算すると減少戸数は100238…誤差は…これは戦死・飢饉で一家全滅等含むですので限界があります(言い訳かい)細かい数まで全部書いてあればいいのですが…検証する必要も消えるけどな

ここからは余談ですが、では、いなくなった人はどこへ消えたのでしょうか?当ても無く彷徨い星に還った方も大勢いたでしょうが、みんながみんな返事が無いただの屍になったわけではないでしょう。ここで考えられるのが、盗賊になった、山賊になった、海賊になった、湖賊になった、川賊になった、黄巾、くどいですね。もちろんそれもあるかもしれませんけど一家揃ってはなかなか難しいものがあるでしょう。そこでもうひとつ、地方の有力豪族が考えられるのです。いつの時代でも豪族というのは小作人などが必要なものです。そんなとき彼らに目をつけるのは当然の成り行きでしょう。戸籍に無い彼らを用いれば兵役・租税の義務を回避することができ、人件費も抑えられるのです。流民の多くがこうした有力豪族のもとに身を寄せたのではないでしょうか…

 

参考資料:

三国志 立間祥介訳 筑摩書房        史記(十一)匈奴伝 水沢利忠訳 明治書院

ほぼ訳!後漢書 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.200.100.index.html

三国検索(晋書部分)http://sangoku.lib.net/

参考資料 イ

 

戸籍上の戸数

戸籍上の人口

戸籍上の世帯平均人数

元の状態

100

400

4

戦乱・飢饉による人口50%減

100

200

2

戦乱・飢饉による人口40%減
逃散による人口10%減

90

200

2.22

戦乱・飢饉による人口30%減
逃散による人口20%減

80

200

2.5

戦乱・飢饉による人口20%減
逃散による人口30%減

70

200

2.86

戦乱・飢饉による人口10%減
逃散による人口40%減

60

200

3.33

逃散による人口50%減

50

200

4

 

涿郡高帝が置いた.洛陽から東へ北千八百里。七城,戸数は十万二千二百一十八,口数は六十三万三千七百五十四。(6.2口/戸)

范陽國漢置涿郡。魏文更名范陽郡。武帝置國,封宣帝弟子綏為王。統縣八,一萬一千。

・・・②

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