三国志研究会新歓レジュメ                       2003.4.10

反董卓同盟の検証

万以上の軍馬を並べても...

政治経済学部経済学科2年 玄鳳

物語としての三国志で、反董卓同盟と董卓軍の戦いは前半部分のハイライトの一つといえるだろう。都で暴虐の限りを尽くす董卓に対し、曹操の檄に呼応して各地の群雄が一斉に挙兵したのであるが、その同盟は目的を果たせぬままに解散した。結局、事態を変えたのは部下であった呂布の反逆であった。今回は、なぜ反董卓同盟が打倒董卓という目標を達成できなかったのか考えていきたい。

1,        経緯

中平六年(189) 九月 董卓が少帝を廃位、献帝を擁立
十二月 曹操が董卓を滅ぼすために旗揚げ
初平元年(190) 正月 各地の群雄が一斉に挙兵、反董卓同盟結成
二月 董卓が長安へ遷都、同盟軍進軍せず
曹操、単独で進軍するも敗戦
初平二年(191) 袁紹と韓馥、劉虞を皇帝に擁立しようと図る
四月 董卓は軍を長安に退く
七月   袁紹、韓馥から冀州を脅し取る
初平三年(192) 四月 王允・呂布が共謀して董卓を殺害

2,       軍容

反董卓に挙兵した群雄

後将軍・袁術、冀州牧・韓馥、豫州刺史・孔チュウ、エン州刺史・劉岱、

河内太守・王匡、渤海太守・袁紹、陳留太守・張バク、東郡太守・橋瑁、

山陽太守・袁遺、済北相・鮑信、荊州刺史・劉表、長沙太守・孫堅 など

軍勢はそれぞれ数万、袁紹が盟主、曹操は奮武将軍を兼任。

全体で兵力は十余万(これには誇張が含まれている)

3,        内部事情

同盟内部の不協和音

●  劉岱は橋瑁と仲が悪く、彼を殺害した。

●  袁紹と韓馥は幽州刺史・劉虞を皇帝に擁立しようとした。

●  袁紹は公孫サンの襲来に恐れる韓馥につけこみ、冀州を奪った。

●  袁紹は、自分を責めた張バクを曹操に殺害させようとした。

●  袁術は孫堅を疑って、兵糧を送らなくなった。

⇒互いに非協力的で、結束力に欠ける。

  軍勢の分散、非連動

●  王匡軍は董卓軍に不意をつかれるかたちで襲撃され、壊滅した。

●  袁紹は河内に、張邈・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗に、袁術は南陽、孔伷は潁川、韓馥は鄴に駐屯していた。

    ⇒大軍として機能していないため、破壊力が小さい。

  戦意の欠如

●  洛陽に火をつけた董卓軍に、先頭をきって進軍するものはいなかった。

●  曹操の敗走後、諸侯は彼の計略に従わず、いよいよ攻勢に出る気は無かった。

⇒言うまでもなく、董卓を倒すことなどできない

各群雄は大義名分にかこつけて、自らの勢力拡大を目論んでいた

4,        董卓軍

兵力は(自軍)+(何進・何苗の軍)+(丁原の軍)

郿の砦に、三十年分の食糧を蓄えた

指揮官を親戚で固めていた

涼州方面における地盤

    ⇒防衛するのに十分な備えがあったと考えられる

5,        地理的条件

董卓の遷都した理由

・・・・天然の要害、堅固な関所(図2参照)

中原からみると、長安は攻めるに難く、守るに易い土地

6,        総括

     董卓軍の軍備は整えられていた

     地理的には守備側が圧倒的に有利

     同盟軍には結束力・戦意がない

反董卓同盟は、参加した群雄及びその兵力から判断すると、大規模なものであった。一方、長安に遷都した董卓は、その険阻な土地を盾として守りを固めたため、これを攻略するには大きな兵力を集中して攻勢をかけなければならなかった。しかしながら、同盟軍の群雄は自己の利益を優先して、進んで戦闘を仕掛けようとはせず、連携が取れていなかったため、董卓を滅ぼすことはできなかった。

万以上の軍馬を並べても

討ち果たせない事もあるよ

たった一太刀で

終わってしまう事もあるのにね

<参考文献>

正史三国志1、2、3、6、8        ちくま学芸文庫