三国志研究会レジュメ

beneficiary of 羅貫中
why did he Cherish them ?

社会科学部三年 白羽扇

〜建安24年(西暦219年)成都にて〜

劉備 「余の漢中王即位にともない、五虎将軍を任命する。文官たちよ。義弟達にこのことを伝えてまいれ。」
費詩・費 「そ、そんなぁ・・・。そんなこと伝えたら私たちは殺されてしまいます!諸葛亮殿、お助けください・・・」
諸葛亮 「わかりました。ではお耳を拝借。(ヒソヒソヒソヒソ・・・)」

〜荊州 関羽の政庁〜

費詩 「関羽殿、劉備様はあなたを張飛殿・趙雲殿、馬超殿、黄忠殿とともに五虎将軍に任命されるとの事でございます。」
関羽 「なんじゃと!!義弟や子龍はともかく、馬超やジジイと同格とはどういうことじゃ!!!」
費詩 「い、いえ、ですから関羽殿はその五虎将軍の筆頭ととするとのことです。それに諸葛亮殿も『さすが関羽殿、他の四人とは格が違いますねぇ〜』と褒めておいででしたよ。」
関羽 「うん、そうだろうそうだろう。五虎将軍の命、謹んでお受けいたすと伝えてくれ。」
費詩 「かしこまりました。(ふー、助かった。しかし・・・、おだてに弱いって本当なんだなぁ・・・。)」

〜巴西 張飛の政庁〜

 「張飛殿、(以下略)」
張飛 「ああんっ!なんでオレが(以下略)」
 「それに関しては諸葛亮殿から説明の手紙を預かっております。」
張飛 「・・・・・・・」
 「張飛殿?どうかされましたか?」
張飛 「ざけんな!白紙じゃねぇか!この野郎・・・、おい、范彊、張達!縄とムチもってこい。久々にプレイするぞ!」
 「ヒッ、ヒイーーーー!!(ああ、諸葛亮にまたハメられたよぉ・・・。今度会ったら・・・って、もう私に今度はないんだったーーー!)

1 はじめに

 ということで、今回は漢中王即位後の蜀の武官の不可解な人事について、特に黄忠について取り上げたいと思います。
五虎将軍という官名は演義のフィクションですが、その原型になったと考えられる記述が先主伝にあります。(資料1 建安二十四年秋、群臣が先主を漢中王に推挙し、漢帝に上表した。「(中略)軍師将軍の臣諸葛亮、漢寿亭侯の臣関羽、征虜将軍・新亭侯の臣張飛、征西将軍の臣黄忠、〜(以下省略)」)
 このように、劉備は漢中王即位時、新参者の黄忠を関羽・張飛らと同格に扱おうとして、人を見る目のない諸葛亮先生にさえ「それはマズいんじゃないですか?」と諫言されています。それを押し切ってまで劉備が黄忠を抜擢した理由はどこにあったのでしょうか?今回はそのあたりを考えていきたいと思います。

2 正史黄忠

ではまず、その理由をさぐるために正史の黄忠伝を見てみましょう(資料2は省略)。一瞬、「こんな短い文章から何を読み取れというねん!」とも思いましたが、そのなかから興味深いワードをふたつ発見しました。それは「南陽郡の人である」「一度の戦闘で夏侯淵を切り」です。以下ではその点についてお話しましょう。

3 南陽郡とは?

 さて、まずは「南陽郡の人である」についてです。みなさんは南陽というと何を思い出すでしょうか?えっ?「偉大なる大成帝国皇帝袁術陛下の治められた土地である!!」ですか? ・・・はい。すばらしい三国志熱です(爆)。
でもここでは袁術陛下は関係ありません。ここで論点になるのは「東州兵」という集団です。資料3(『英雄記』にいう、これより以前、南陽・三輔の人々が数万家族も益州に流れこんでいたが、それらの人々を集めて兵士とし、東州兵と名づけた。〜後略)をご覧ください。このように、この当時、中原の戦乱を避けてきた南陽・三輔(長安周辺)の流民が、大量に益州に流れ込んできており、彼らは「東州兵」と呼ばれる軍団に組織されていました。そしてその東州兵は、劉璋伝などからもわかるように、規模・戦闘能力ともに蜀内部ではかなりのアドバンテージを持っていたようです。ですから、黄忠が重用された背景には、南陽出身者の東州兵の支持を集める目的があったと考えられます。また、それを裏付けるものとして、同じく南陽郡出身の李厳も重用され、劉備の臨終の際には諸葛亮とともに後事を託される(李厳伝、諸葛亮伝など)ほどの重用をされています。

4 要害:漢中

 次に、「一度の戦闘で夏侯淵を切り」というところについて考えてみましょう。いまさらいうのもなんですが、漢中というのは非常に堅固な要害です。張魯が長年にわたって漢中の地を維持できたのもそのおかげですし、圧倒的戦力を誇る魏軍ですらレジスタンスにすぎない張衛にてこずり(張魯伝)、バカ軍人姜維の愚挙がなければ攻め落とせなかった(姜維伝)ような場所なのです。
また、地政学上の理由だけではありません。漢中は漢の劉邦が封じられた場所でもあり、蜀の漢中獲得は、単なる領土の増加というだけにとどまらず、形式的にも大きな意味をもっていたといえます(だからこそ、劉備は蜀王ではなく漢中王を名乗ったのだといえます。)。この様に様々な面で重要な意味をもつ漢中を、それも一度で奪取したということは、たとえマグレであったとしても非常に大きな功績であったといえます。

5 おわりに

 以上のような理由から黄忠は、新参者にも関わらず破格の重用をされたのだと考えられます。マジメにこつこつ名声を高めていくしかない文官とは違い、武官は「一発で大もうけ」ができる職業ということを示したものといえるでしょうか?やっぱり「漢ならギャンブル!」ですかねぇ(爆死)。
 なお、蜀政権と東州兵との関係は、私が非常に興味を持っているテーマのひとつです。あまり激しくツッこまれると暴走しますのでほどほどに(笑)。


おしまい

参考文献 正史三国志 (陳寿・裴松之 井波律子ら訳 ちくま学芸文庫)
       【詳細】三国志歴史地図 (学研)
       2002年度鶏肋譚 (当会会誌)

6 補足

 予想通りといいますか何と言いますか・・・、黄忠の出世の原因を南陽郡出身に求めるあたりに会員からのツッコみが集中しました。そのためここでは補足としてそのあたりについてもう少し解説を加えたいと思います。まずは前述の漢中王上表文に連署した百二十人のうち、名前の載っている(つまり主要な)人物の一覧をご覧下さい。


順位 名前
1 馬超
2 許靖
3
4 射援
5 諸葛亮
6 関羽
7 張飛
8 黄忠
9 頼恭
10 法正
11 李厳


 「なんで馬超が一番なんすか?」、「諸葛亮より上にいる射援って誰だよ!」と思われることと思いますが、三国志演義だけでは読み取れない蜀政権の内部問題をなんとか調整しようとしている努力が見て取れる並べ方なのです。というのも、蜀政権とは荊州南部に地盤を持つ劉備が益州をのっとった政権のため、もとから益州にいた在地勢力の支持を得ることが必要だったということです。そしてこの戦乱の時代、何よりもまずはじめに支持を得なければならなかった勢力は軍事力をもっている人々です(そうでないと反乱を起こされてしまいますからね)。そして、前述のように劉璋政権において大きなアドバンテージを占めていたのが東州兵だった、というわけです。そのような視点から上の順番を検証してみると、馬超は三輔で周辺の豪族を糾合して曹操に反乱を起こせるほどの地元の実力者、?羲は劉璋のかわりとして兵権を握っていた人物、射援も三輔の出身で兄は中央政府に召し出されるほどの名門出身、法正はもともと三輔の出身で地元では代々名をはせていた一族、と、いずれも東州兵を南陽郡の出身者とともに占める三輔に名声を持つ人物であったことがわかり、(南陽郡出身者よりも三輔出身者の方が重用される傾向にあるのはおそらく蜀政権の次の目標が長安であったためだと考えられます)上位を占める人物のうち半数以上を東州兵の関係者で占めていることになります。
つまり、漢中王上表文の署名の順番は、東州兵に影響力を持つ三輔・南陽の人物を引き立てることによって東州兵を地位上、もしくは実際の政策面において優遇し、その支持を得ようとする意図が明確に表れているといえます。ただ、蜀書には蜀においてどのような政策がとられていたかを示す資料がほとんど無いため、具体的に三輔・南陽出身者をどのように優遇したかを示した資料は発見できませんでした。



*その他会員のコメント

正史に黄忠の生年は記述されていないのにどこから「ジジイ」というイメージが来たのか?
  →費詩伝の「大の男が老兵と同列にはならぬ」という関羽のセリフから

南陽郡の話はわかったがでは黄忠は本当に東州兵に影響力を行使できるような地位の人物であったのか?
  →黄忠伝の冒頭に劉表に登用されたという記述がある。当時の地方官の採用制度は州刺史(州牧)が採用官の推薦を受けて現地人から採用するという形ではあったが、実質的には地元の有力者同士の推薦のしあ いであった。(現代日本でもありそうな話だ・・・)そのため、たまたま劉表の目にとまったと考えられないわけではないが、そういった記述は存在しないため、それなりの声望家であったため、ごく自然な流れで採用さ れたと考えるほうが自然であると思われる。

姜維嫌いなんですか?
  →いいえ、あのバカぶりが大好きです(爆死)