三国志研究会レジュメ

姜維の権力確立過程

社会科学部三年 白羽扇


〜炎興元年(西暦263年)成都にて〜

姜維 「魏…、攻メテ来タ。我…、敵…、倒ス。我…、出兵スル。」
諸葛瞻 「姜維!勝手な行動は慎みなさい!」
黄皓 「姜維殿、まだあなたの出番ではありません。これは陛下の命ですぞ。」
姜維 「ヌォオオオ…、我…、戦イコソ…、全テ…!」(どこかに走り去る)

〜魏軍 征蜀軍本陣〜

伝令 「申し上げます。前方に異様な将が現れ一騎打ちを望んでおります。」
鍾会 「何?たった一人だと?何かの策か?とりあえず見に行ってみるとするか。」
姜維 「鍾会…、ケ艾…、我ト…、戦エ…。」
鍾会 「な、何だアレは…。まあよい、見たところ相当な年寄り。私が引導を渡してくれるわ!」
ケ艾 「鍾会殿、お待ちなさい。アレが姜維です。下手に手を出すと痛い目に会いますぞ。」
鍾会 「うむぅ、ではどうすればよいのだ?」
ケ艾 「なに、奴は戦しか知らぬ獣。放っておけば危害はありません。」
鍾会 「そうか。では放っておいてこのまま進軍を続けるとしよう。」
姜維 「ウガァアアア、誰デモイイ…、我ト…、我ト戦エェェ!!」
鍾会 「…、ア、アホや…。何であんなのが蜀の総司令官になれたのだ…。」



 今回は姜維についてです。「あれ、このセリフって魏延じゃなかったっけ?」というツッコミがあるかと思いますが、私の正史における姜維像は無双の魏延と演義の呂布を足して割ったような人物なのです。そこで本当に姜維はそんなにアブナイ人物だったのか、もしそうならなぜそんな姜維が軍権を握りえたのかについて考察してみたいと思います。

 なお、このレジュメは私が昔書いたレジュメにいただいた感想から作りました。松竹梅様、ありがとうございました。



1 実際の姜維

 ではまず正史の姜維の記述を探してみましょう。まずは諸葛亮存命中、毎回毎回「偽退却→伏兵で包囲」の無敵コンボをきめていたころの記述は・・・、ありません。そうです。横光などでは毎回同じパターンで司馬懿を脅かしている姜維ですが、正史では戦闘どころか参謀として意見を述べたことすらありません。そもそも諸葛亮伝には「姜維が投降してきた」という記述以外には姜維の“姜”の字も出てきません。それではいつごろから正史に姜維の名前が出てくるのでしょうか?名前が出てくるのは諸葛亮の没後、その後任の蒋?が北伐の姿勢を見せだしてからで、本格的に活躍しだす(北方の対魏戦線の総指揮官になる)のはさらに蒋?の後任の費?が暗殺されてからです。

ではそれからの姜維の行動を見てみましょう。(後主伝、姜維伝より)


西暦 行動 結果
253 南安を包囲 陳泰の援軍と兵糧不足のため撤退
254 隴西に出兵 徐質を斬り涼州方面の人間を拉致して帰還
255 狄道に出兵 王経に大勝し王経の立てこもる狄道城を包囲するが陳泰の援軍に破られる
256 上邽に出兵し胡済と落ち合う 胡済が来なかったためケ艾に大敗する。
257 諸葛誕の反乱に乗じて出兵し長城の食糧庫を狙う 先に到達したケ艾・司馬望が守りを固め姜維の挑発に応じず。
258 同上 長城奪取を諦め帰還
262 侯和に出兵 ケ艾に撃退されたため沓中に撤退しそこに駐屯
263 魏の蜀侵攻軍と交戦 ケ艾に撃破されたため剣閣に退却し鍾会を防ぐが皇帝劉禅がケ艾の別働隊に降服したため降服
264 鍾会を煽り魏に反乱させる 失敗し鍾会もろとも殺害される
不明 漢中の防衛線を下げる

 別に戦争の記録しか引っ張ってこなかったわけではありません。戦争しかしていないのです。六度の北伐をしながら国内の政治も行っていた諸葛亮とは大違いです。また、これだけ毎年のように戦争を繰り返していれば戦費も莫大になります。この時期、大赦(刑の減刑というよりは減税の意味合いが強いようです)が頻繁に行われていますが、そうでもしなければ民衆が反乱を起こしかねないほど財政を戦費が圧迫していたのでしょう。そして最後の「漢中の防衛線を下げる」という記述、そうした理由が「敵を撤退ではなく撃破できるから」だそうです(資料1)。しかも防衛線を下げた状態でまた出兵し結果魏の侵攻を容易にしたのですから姜維こそが魏の征蜀軍最大の功労者といえるでしょう。みなさんが一国の主ならこんな戦争狂に軍事・国防を任せられますか?私にはできません。



2 涼州(*注)への道案内

 ではなぜ、そんな戦争狂の姜維が権力を握るにいたったのでしょうか?その過程について考えてみましょう。まずは姜維が涼州出身者であったためです。蜀では、建国当初から当面の目標である涼州方面の地理に明るく、顔のきく人物は重用されていました。劉備の漢中王上奏文の署名の筆頭に諸葛亮や関羽・張飛を押さえて馬超の名があるのはその現れと言えます。また、司馬懿との政争に敗れて処刑された曹爽の一派である夏侯覇が亡命してきた際にも重用されています。夏侯覇が劉禅と姻戚にあったことも理由ですが、長年涼州方面にいて地理に詳しかったことも大きな理由だといえます。つまり、涼州への地理というアドバンテージのために歴代の漢中方面指揮官に重用されていた姜維は序列の繰上げにより出世していったということです。

* 注 魏では長安一帯以西を雍州と涼州に分け、蜀ではまとめて涼州としていたようです。
  また、雍・涼州の区分は時代によっても変わるのでここではまとめて”涼州”としています。



3 成都閥VS漢中閥

その次の段階として成都と漢中、つまり会議室と現場(古)の乖離があげられます。ところでみなさん、“幕府”の語源はご存知でしょうか?幕府とはもともと中国から来た言葉で、将軍の遠征先の幕舎をさします。それが転じて、重臣が中央に対しある程度独立した権能を持つ機関のことを指すようになりました。そして、歴代の対魏司令官の諸葛亮・蒋琬・費禕はいずれも幕府を持っていました。そういった土壌もあり、漢中の司令官はある程度勝手に行動できたようです。

また、幕府の役人は開いた人の裁量で任命できるようでした。実際、諸葛亮は蒋琬、費禕、胡済、楊儀など自派閥の荊州出身者で幕府を固めていました。そして諸葛亮は丞相として絶大な権力を握っていたため、漢中方面の指揮官は諸葛亮没後もその子飼いの配下蒋琬が後を継ぎました。さらに、荊州出身者は関羽の敗死により故郷荊州から追われていたため、外に新たな地盤を得ようとする傾向がありました。

そういった状況のもと、蒋琬の費禕に次ぐ子飼いとしてかの戦鬼姜維が権力を握り漢中方面の指揮官になったのです。荊州派の中では穏健派だった費禕の存命中ですら積極攻勢を唱えていた姜維が権力を握った時点で、もう暴れ出すのは目に見えていますが、ここまで半独立化してしまった漢中の軍団をいまさら直轄化することはできなかったのでしょう。



4 おわりに

 このような経緯で姜維が軍権を握り、やりたい放題に暴れられる環境がそろってしまったのだといえます。「最良の選択が最良の結果を生むとは限らない」というやつの見本でしょうか?それとも、「必要な時はいかなる混乱が予想されようとも大ナタを振るわなければならないときがある」ということを示した教訓といえるでしょうか?

 なお、ここまで読んで「コイツ…、相当姜維が嫌いなんだな」と思われたかもしれませんが、私はただでさえ華がないといわれてスポットのあたらない三国時代末期において呂布なみに暴れ回り歴史を面白くしてくれた彼が好きです(笑)。

おしまい

参考文献 正史三国志(陳寿・裴松之 井波律子ら訳)
       鶏肋譚(当会会誌)




*会員の感想

・呉懿は雍州刺史→蜀にも雍州という考えかたはあった。
・「姜」姓は天水の名族らしい
・呉懿・王平も漢中の守将になっているので諸葛亮→蒋琬→費禕ではない