三国志研究会新歓レジュメ

字から見る人間関係

〜諸葛兄弟編〜

社会科学部三年 白羽扇

〜建安十三年(西暦208年)柴桑にて〜

魯粛 「諸葛瑾殿、劉備殿の使者として弟君の諸葛亮殿がみえていますよ。」

諸葛瑾 「ええ、先ほど殿からうかがいました。」

魯粛 「聞けば諸葛瑾殿はもう随分と諸葛亮殿と会われていないとのこと。せっかくですからお会いになってはいかがですか?」

諸葛瑾 「いえ、今の弟は劉備殿の臣、私用で会うわけにはいきません。」

魯粛 「そう固いことをおっしゃらずに。殿に怒られたら私も一緒に謝ってさしあげますから。さあ、参りましょう。」

諸葛瑾 「プチッ(何かの切れる音)」

魯粛 「!?」

諸葛瑾 「(魯粛のこめかみをつかんで)会いたくねえっつてんだろこの成金ボンボンが!ガタガタぬかしてっと前脚で蹴り鉄拳くらわすぞゴルァ!」

魯粛 「パクパクパクパク・・・」

      

さてここで問題です。なぜ諸葛瑾さんはキレちゃったのでしょうか?答えはこのレジュメを最後まで読めばわかる・・・はずです。

1 字とは

そもそも字とは何でしょうか。それは通称のことです。この当時、言霊信仰の影響でやたらに本名を使うのはその人に悪影響をあたえると考えられていました。そこで幼年期には幼名、成人してからは通称である字が用いられました。また、その字は適当につければいいというものではなく一定のルールがありました。以下ではそのルールをみてみましょう。

2.字の基本原則

 字のつけ方に関する一般的なルールは以下の通りです。

1.父親の名・字に使われている文字は使われない

2.兄弟の場合、順番を表す元(もしくは玄、伯)、仲、叔、季、幼、・・・がつく

3.また、兄弟では同じ文字を共有する

4.2.3は特に同母兄弟で適応されることが多い

5.字は名に関連する文字が使われることが多い(主に上流階級)

 まず、1についてですが忌名の制といいます。日本における経名の制とは正反対の制度といえます。次に2ですが、孫策・孫権兄弟や司馬兄弟、夏侯兄弟などにそれが見られます。ちなみに、本来は“季”が末っ子という意味なのですが、それから後に子供が生まれた時のために“幼”が用意されています。この先にもいろいろあるようですが、さすがに同腹兄弟が七人八人といるケースは少ないのではっきりしたことはいえません。また、3は2との併用でよく使われます。2の説明であげた司馬兄弟・夏侯兄弟の他、馬良季常・馬謖幼常らの「馬氏の五常」の“常”や曹丕子桓・曹彰子文・曹植子建兄弟の“子”などがあげられます。ただし、劉備・曹操・孫権の子それぞれに例外があるように、2との併用以外ではあまり厳格には用いられていないようです。そして5ですが、趙雲子龍(雲・龍ともに空を連想させる)・董卓仲穎(卓・穎はいずれも“とがった”という意味を持つ)・蒋琬公琰(琬・琰とも“おうへん”の文字)などですが、例外が多く、私も漢字に詳しくないのであまりよくわかりません(爆)。

 

さて、これを踏まえた上で諸葛兄弟の字をみてみましょう。

「諸葛瑾は、字を子瑜といい、(呉書諸葛瑾伝)」

「諸葛亮は字を孔明といい、(蜀書諸葛亮伝)」

ということで上記のルールをそのまま適応すれば諸葛兄弟は同母兄弟ではないということになります。もちろんこれだけでは断言できないので他の点からも考えてみましょう。

3.諸葛異兄弟説 

まず、渡辺精一氏はその著書「諸葛孔明 影の旋律」のなかで、諸葛兄弟の七歳という年齢差と、諸葛瑾伝には先祖の由来、諸葛亮伝には父諸葛珪についてとそれぞれの別ことが記載され、かつ重複させていない点、そして諸葛亮と諸葛誕には祖先諸葛豊のことが記述されているのに諸葛瑾にはその記述がないことをあげて諸葛兄弟は異母兄弟であったとしています。しかしながら、この渡辺氏の説には少し苦しいところがあります。それは諸葛瑾伝の「諸葛瑾は若い時代に京師に出て、(中略)学問を修めた。母親が死去すると、(後略)」という記述です。普通に読めば学問を修めて帰ってきてから母親(実母)が死んだというふうに読みますよね。ですが、兄弟の年齢差は前述のように七つしかはなれていません。ですから、異母兄弟説とこの記述、そして年齢差をあわせると諸葛瑾は七歳までに洛陽に行って学問を修めて帰ってきたことになります。ちょっとおかしいですよね。

 では、諸葛兄弟は異兄弟ではなかったのか?いえ、もうひとつ異父兄弟という可能性があります。それを検証してみましょう。まず、諸葛瑾の名についてです。父=珪、子=瑾、と前述の法則1と4から推測するに忌名の制にひっかかっている可能性が高いです。また、前述の通り諸葛瑾伝には諸葛豊と諸葛珪のことが記載されていません。「陳寿が面倒くさかったのではぶいた」と考えられないわけではありませんが、通常その人物の記述の直前に父親の記述がされていないかぎり、「××は○○の子である」といった類の記述があり、誰の子かわからないわけでもないのに父親の記述がないというのはこの諸葛瑾伝くらいしかありません。まあ、二十巻ほど前に諸葛亮伝で父親と先祖の名前が出ているのでわかるといえないこともないわけですが・・・。ですから、諸葛瑾伝に諸葛珪の名がないのは陳寿が諸葛瑾は諸葛珪の子ではないということを暗に示したかったからなのではないでしょうか。

 結局なにが言いたかったのかというと、諸葛瑾と諸葛亮は異父兄弟であるということです。つまり、「諸葛珪の一人目の妻は子持ちであり諸葛珪と結婚後子を産んだ。そして前の子が諸葛瑾、後の子が諸葛亮だった」ということです。こう考えると諸葛珪の後継ぎは嫡流である諸葛亮になりますから、諸葛瑾が一人で江東にいったことも、諸葛亮はそれについていかなかったことも説明できます。つまり、冷や飯食らいの庶子が自分で家を立てるために江東にいったということです。父親が違うだけで家名を継げず江東までいくハメになった諸葛瑾さん、オフィシャルな場ならともかく、プライベートでまで会いたいですかねぇ?

4.おまけ 

その諸葛瑾さん、なんだかんだいったも呉政権内では相当の出世をとげました。主君孫権にも信頼されて順風万帆の日々のはずでした


が、


ある日弟諸葛亮から「子供がいないのでひとり養子に欲しい」という手紙が来ました。「なめんな!」と突っ返すのかと思いきや諸葛瑾さん、やめときゃいいのに次男諸葛喬を養子にあげてしまいます。始めのうちは後継ぎとされうまくいっていたようなのですが、諸葛亮に実子諸葛瞻が生まれた228年、25歳という若さで突如急死します。いくら劉備の養子劉封を「自分では扱えなくなるかもしれないから」といって処刑をうながす進言をしたり、劉備に後事を共に託された李厳を永安に締め出したり、生意気だからという理由で彭ヨウの讒言を劉備に繰り返したりと「邪魔者は殺させる」が標語の諸葛亮さんとはいえまさか、いくらなんでも自分の甥っ子を・・・ねぇ、

諸葛亮さん!!

おしまい

参考文献 正史三国志 (陳寿、裴松之 井波律子ら訳 ちくま学芸文庫)

       諸葛孔明〜影の旋律〜 (渡辺精一 東京書籍)

       横山光輝三国志事典 (論風社 潮出版社)


資料(ちくま学芸文庫「正史三国志」1〜3巻より)

備考

 

備考

曹操

曹昂

子脩

劉氏

早世

 

荀ケ

荀ツ

長倩

 

 

 

曹丕

子桓

卞氏

 

 

 

荀俁

叔倩

 

 

 

曹彰

子文

卞氏

 

 

 

荀ェ

曼倩

 

 

 

曹植

子建

卞氏

 

 

 

景倩

 

 

 

曹沖

倉舒

環氏

 

 

 

荀粲

奉倩

 

 

 

曹宇

彭祖

環氏

 

 

司馬防

司馬朗

伯達

 

 

 

曹峻

子安

秦氏

 

 

 

司馬懿

仲達

 

 

 

曹彪

朱虎

孫氏

 

 

 

司馬孚

叔達

 

 

董君雅

董擢

孟高

 

早世

 

杜畿

杜恕

務伯

 

 

 

董卓

仲穎

 

 

 

 

杜理

務仲

 

 

 

董旻

叔穎

 

 

 

 

杜寛

務叔

 

 

袁紹

袁譚

顕思

 

 

 

鄭興

鄭秦

公業

 

 

 

袁煕

顕突

 

 

 

 

鄭渾

文公

 

 

 

袁尚

顕甫

劉氏

 

 

応奉

応瑒

徳l

 

 

夏侯淵

夏侯覇

仲権

 

次男

 

 

応璩

休l

 

 

 

夏侯威

季権

 

 

 

鍾繇

鍾毓

稚叔

 

おそらく異母兄弟

 

夏侯栄

幼権

 

五男

 

 

鍾会

士季

張氏

おそらく異母兄弟

 

夏侯恵

稚権

 

夏侯威の弟

 

 

 

 

 

 

 

夏侯和

義権

 

夏侯恵の弟

 

 

 

 

 

 

不明

夏侯尚

伯仁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏侯儒

俊林

 

 

 

 

 

 

 

 

不明

曹仁

子孝

 

同母兄弟

 

 

 

 

 

 

 

曹純

子和

 

同母兄弟

 

 

 

 

 

 

荀緄

荀衍

休若

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荀ェ

友若

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荀ケ

文若

 

 

 

 

 

 

 

 

  会員の感想 

・「諸葛珪の妻に子供がいなかったため妾に瑾を産ませた。でもその後亮が生まれてしまった」というパターンは考えられないか?

・「子」という字はよく使われた、メジャーな文字なので法則に当てはめるのは難しいのでは?

・諸葛亮孔明(亮・明ともに“あかるい”という意味)・諸葛瑾子瑜(瑾・瑜ともに“おうへん”)とも原則5にあてはまるので同母兄弟の可能性もあるのでは?

・上流階級でない字の例は?  例:甘寧興覇など

・“字”という視点は斬新

・瑾の実夫も諸葛でないと“諸葛瑾”にはならないのでは?   反論:朱然はもとの姓が“施”なのに“朱”を名乗っていいた

・字だけでなく名の関連性を調べてみるのも面白いかもしれない 例:杜恕・杜理・杜寛は名にも関連性あり