三国志研究会発表用レジュメ

Mazohyst of decadence

                      理工学部応用化学科一年 

初メニ・・・〜失シ者達ノキザム歌〜
 宦官・・・・・・・・。三国研の諸賢はこの言葉にいかなるイメージを抱いているだろうか。濁流?黒幕?男性失格者?そのイメージは人によって様々でしょう。
でも、彼らも歴史の中に生まれた人間達の一人であり、また、彼らはその悪いイメージにも負けずに(?)なんと20世紀まで存在し続けました。
今回のこのレジュメでは、彼らの生きてきた姿に注目してみたいと思います。

第一章・・・〜作ラレタ人工ノ君〜
 宦官というのは、何も中国だけに存在していたわけではありません。英語では宦官はユウナック(Eunuch)と呼ばれますが、聖書にもその意味で使われたものを、いくつか見かけることができます。
彼ら宦官がいつごろから歴史に現れ始めたのかということですが、一応西洋ではアッシリアの女王セミラミスの時代に始まったと言われています。
中国においてですが、歴史書に登場している話によると、すでに春秋時代には、彼らが政治に登場していて、また早くも悪業をも働いてもいたそうです。
また、最近の発見によると、殷王朝の遺跡から「羌」と書かれた甲骨が発見されました。「」は「『アレ』を刃物で切断する」という意味で、全体としては「羌族の捕虜を去勢する」という意味になります。
こうみると、中国においては文明が始まると同時に捕虜を去勢するといったことが行われていたことになります。
さて、実際にどのようにして去勢したのか・・・。
清朝の時代、自ら「アレ」を切除することを望んだ者達は、紫禁城の近くにある「廠子」という去勢手術専用の病院に行きます。
そこには、専門の執刀医が数人いて、彼らにしかるべき手術料を支払います。銀六両ほどと言われ、大体日本円にして3万円ほどでしょうか。
手術を受けるものは、?というオンドルに半臥の姿勢で座り、助手が足腰をしっかり固定します。そして、「後悔不後悔(本当に、これでいいんですね)?」と念が押され、いよいよ手術が行われますが、その流れはこのようなものです。
まず、包帯で下腹部と股の上あたりをしっかりとくくり、「アレ」の付け根のあたりを熱い胡椒湯で三度消毒し、底に合金製の少し湾曲した専用の刃物で「アレ」と「アレに付随する袋」を一気に切断します。その後、傷口の尿管に、栓をし、水でぬらした紙で傷口を注意深く包み、三日間放置します。ちなみに、放置の間、水は一滴も飲めません。また、傷口は、盛り上がってきた肉が紙に張り付いたりして、ものすごく痛かったそうです・・・。なんか書いてる自分も「アレ」が痛くなってきたので、この辺にしときます・・・。
その後、栓が抜かれ、尿が勢いよく噴出すと、手術成功となり、晴れてここに一人の宦官が登場するわけです。尤も、ここで尿が出なかった人は悲惨ですが・・・。

第二章・・・〜絡ミアウ者タチ〜
 さて、実際に宦官が政治に絡んでくるメカニズムというのはどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、ひとつの例として、前漢と後漢をあげてみたいと思います。
前漢の高祖として有名な劉邦。そんな彼にまつわるひとつのエピソードがあります。
「史記」によると、彼が死ぬ前年の夏、高祖は病を患い、面会謝絶のまま十日あまりが過ぎて、樊?が思い切って戸をあけて入ってみると、高祖は一人の宦官に膝枕して臥せっていた。そこで樊?は「今ようやく天下が治まったというのに、陛下はなんとお疲れで、重病なのに政治をとらず、宦官を相手にこの世を去ろうというのか、秦の宦官趙高のことをご存知であろう」と言うようなことを述べた。高祖は笑って起き上がったが、何も語らなかったという。
ここで、高祖が何を思い悩んでいたのかは定かではありませんが、おそらくは後継者のことではないかと考えられるのです。高祖は、皇后呂氏との間にできた太子を廃して、戚氏との間に生まれた趙王如意を立てたかったのです。このことで、高祖は呂氏と激しく意見が対立し、遂には宦官に心の安らぎを求めるようになったのです。
このように、宦官と君主。この二者には切っても切れぬ間柄が古来から存在してきたと思えるのです。
こんな君主に近い宦官が、政治に徐々に絡んでくるようになり、遂には外戚と実権を二分する存在になるのはむしろ当然であるといえるでしょう。
さて、宦官の政治への関与をいよいよ決定的にする事件が発生します。ご存知武帝による司馬遷の登用です。これについては前に清水大兄のレジュメで触れられているので、ここでは詳しくは述べませんが、これがきっかけとなって、中書令が制度化されてしまい、これによって、宦官が君主の側近中の側近になってしまうのです。
時は流れ、元帝の時代、彼は当時急速に重んじられるようになった儒学に熱をあげ、宣帝のころから政務を処理していた弘恭、石顕の二人が中書令として、権勢を強化していきました。
このころ、宦官たちは遂に組織を組むようになります。石顕は、総理府の尚書房の5人の官僚を全員腹心で固め、「党友」と呼び合いました。こうして宦官の政治はいよいよ強大なものになっていくのです。
一応、次の成帝の時代には、宦官勢力は一掃されるものの、王モウの新をはさんで後漢時代に時はながれると、光武帝は、宦官が権力を握れないように、宦官を内廷に押し込め、他とのかかわりをもてなくしてしまいます。
しかし、これは結果的に、宦官同士の結束を強めることとなってしまい、宦官社会の力を一層強くしてしまうことになるのです。
こののち、安帝の親政時代、華族に列せられた皇后閻氏の一族による専横がひどくなり、宦官の江京、李閏は皇后大夫に任じされます。彼らは、外出の度、地方官や人民を傷つけ、官品を横流しして豪邸を立てるなどヤリたい放題でした。
これに対し、清流派の宰相楊震は、彼らの要求をはねつけたり、なんとかしようとしたのですが、結局は官を追われ、服毒して果てます。
さらに、宦官たちの蛮行はとどまるところを知らず、遂に太子を廃してしまい、安帝が死亡すると、今度は北郷侯を傀儡皇帝にしようと画策します。しかし、北郷侯の急死で、彼らの歯車は狂い始めます。
そんな仲、宦官の一人に孫程と言う人物がいましたが、彼は、父の葬儀にも参列できなかった廃太子とその御付の宦官を哀れみ、同志と決起します。このクーデターが成功し、遂に廃太子は皇帝の座に就きます。彼が順帝です。
この、宦官によって政治がかき乱され、宦官によって義挙が起こり、皇帝が即位するという流れは、まさしく宦官の政治への関与が、もはや宦官無しでは政治が成り立たぬほどにまでなっているということを示すものでしょう。
また、順帝はこの功をもって、宦官に対し、養子を迎えてその爵位を譲ることを許したのです。このことで、宦官たちは自分達の身分を確固たることにしていったのです。
その後の霊帝の時代、先代の桓帝の皇后竇氏の父、竇武は、清流派達の領袖の陳蕃や李膺を登用し、宦官の動向を厳しくチェックするようになります。
それに対して、宦官は、太后を丸め込んで、対抗しようとしました。それに対し、彼らは一気に力で彼らを潰そうとします。しかし、その計画は、事前に宦官たちの耳に漏れ、憤慨した宦官たちは、陳蕃たちに先制攻撃を加え、清流派を根こそぎ潰す事に成功します。
これが、いわゆる党錮の禁です。
この先は、皆様ご存知の通りです。
・・・以上、この章では、前漢と後漢を例にして、宦官が政治に絡んでくるメカニズムを示してみました。

第三章〜宦官ヲ哀レム歌〜
 さらに時は流れ流れて明の時代、この頃になると、大量の自宮者が現れるようになります。自宮者とは、自らの意思で「アレ」を切除して、宦官になろうとした者たちです。
彼らは、あまりに貧しく、その貧しさのあまり、「これで飯が食っていけるなら・・・・・」と思いつめて、遂に宦官になったのです。
この時代、金がなくて恋人もできず、結婚もできず一生独身(&恐らくは童貞)ですごさねばならない男たちにとって、「アレ」はもはや尿を排泄するための道具以上の何物でも無かったのです。そこへ、ただ「アレ」を切り取って宦官になれば、大金持ちになって国の政治に関与できて行く行くは帝国をわが手中に・・・・となれば、彼らが自宮に走るのも無理は無いでしょう。
このような動きに対し、政府もしばしば自宮をした者は死刑にするという禁令をだしますがまったく効果が無く、この禁令は時がたつにつれ、うやむやにされ、遂には堂々と自宮者が採用されていくのです。
さて、意を決して「アレ」を切り取っても、みんながみんな宦官になれるとは限りません。中には「アレ」を切り取ったけれど・・・。宦官になれない人もたくさんいたのです。
そんな彼ら、政府に「なんとか身柄をかくまってくれ・・・」と要求し、遂には北京の郊外の南苑に住むことを許されるのですが、その数も莫大になり、遂にやしなっていけなくなると、彼らを遂に追い出してしまいます。
しかし、帰るべき所の無い彼ら、彼らはもう追いはぎの類をして食いつないでいくしかありません。この手の失業者の乱暴は一時、有力な商人たちを困らせましたが、所詮文字どおり玉の抜かれた宦官たち、激しい暴力もできず、せいぜい相手の急所を蹴ったりすると行ったものでした・・・・。書いてて宦官崩れたちがなんか情けなくもあり、可哀想にも思えてきました。

この宦官たちの悲話をもって、短いですが、この章を終わります。

第四章〜オモウコト〜
 さて、三国研での初レジュメということで、歴史に咲いた仇花「宦官」達を取り上げてみたわけですが、ぶっちゃけ、宦官に関する専門書は少なく、結果としてほとんど一冊を参考にして書き上げた物になってしまいました。
また、時間的余裕の無さから、資料を満足に調べられず、使った歴史書は大抵中央研究院のサイトをちらちら見るといった程度でした。
次回のレジュメ予定はまだ未定ですが、次回はきちっと仕上げてみたいと思うところです。

参考文献
三田村泰助著 「宦官〜側近政治の構造〜」 中公新書
司馬遷著 「史記」 中央研究院HPより。







「・・・本当に、これでいいんですね」

「・・・ハイ」

「・・・あなたは、何人目ですか」

「・・・一人目です」

「・・・僕は数え切れない宦官を去勢しています。あなたは、許せますか?

・・・・・・・

「・・・もう一度聞きます。本当に、これでいいんですね?」

「・・・ハイ」

「・・・用意は、いいですか?」

「・・・ハイ」

「・・・では、始めましょう・・・・・・」

 

 

 

このレジュメを読んでくれた人へ
このレジュメを聞けなかった人へ
私を支えてくれた三国研の人へ
私が関わったすべての人へ
歴史に消えた宦官たちへ

やさしい祈りと
おやすみのキスを込めて。