三国志神仙伝 3

三国時代における原始道教の様相

紺碧の空

<序章>
 道教学というのは真に以て混沌とした状況にある。そもそも何が「道教」であるかということすら満足に定義がなされていない。それは一つには道教が一つの、若しくはある特定の事物や神に対する信仰から始まったことではない、ということや、幾つかの信仰が複雑に絡みあて成立してきたということに起因する。
 一般的に高校の世界史の教科書などでは道教の大成者は寇謙之とされている。彼はそれ以前にあったいわば原始道教とも云える信仰集団を整備して統一したのである。彼が創り上げた、若しくは整備した宗派を「新天師道」という。新天師道とは既存の宗派であった天師道を復興した宗派に他ならないが、しばらくすると天師道に逆に吸収されてしまった。このほかにも道教には様々な宗派が存在した。そしてそのうちの幾つかは現在も脈々と受け継がれている。
 この道教のいわば源流が三国時代に発生した。しかもそれは一つではなく、幾つかの潮流となって当時の疲弊した社会を飲み込もうとしたのである。またしても高校の教科書を例にとれば道教の始祖は張角の太平道と張陵の五斗米道であるとされる。また、南方には左慈を始めとする道士や方士達がおり、原始道教は百花繚乱の様相を呈していた。これらは全く別の道筋を辿りながらやがて大きな流れとなり、それが仏教・儒教という二つの宗教との関係において道教が成立してゆくのである。
 この文章ではこれらの原始道教について主として北方の太平道と五斗米道の関係について述べたあと、南方のいわゆる葛氏道について述べ、最後にこれらの宗派がどのようにして後生に伝わったのか、ということを述べてゆきたいと思う。

<第一章     北方の原始道教1:太平道>
 『後漢書』の皇甫嵩伝によれば、

初め鉅鹿の張角、自ら大賢良師と称し、黄老道を奉事し、弟子を畜養す。跪拝して首過し、符水もて呪説せしむるをもって病を療す。病者頗る愈え、百姓信じて之に向う

とある。更に『魏志』張魯伝に引かれる典略によれば、

  太平道というのは、巫師が九つの節がある杖を手に持ってまじないをし、病人に叩頭させ過失を反省させてからまじないの水を飲ませる

とある。これを見るに太平道とは病気を治すことを目的とした集団であったと思われる。いかにも呪術的に見えるが懺悔させるということはキリスト教や仏教にも見られることであるし、心理的効果を考えれば全く効果がないというわけではなさそうである。実際の効果はさておいても、当時の疲弊した社会を鑑みれば人々がこういった一種の神秘的な宗教経験を信仰したくなるのも無理はない。後述する五斗米道もこれと似たような側面を持っているので、恐らくこういった一定の儀式を行って病を治すことで信頼を受ける、というのは後漢末以前から行われてきたことではないだろうか。
 そもそも、中国では始皇帝に見られるように不老不死へのあこがれが強い。これは何より現世への執着を著すものであるが、これは何も始皇帝に限ったことではなく、中国の思想全体に云えることである。徹底した現世思考というのは道教だけでなく仏教や儒教にも見受けられる。『論語』の有名な

  季路、鬼神に事えんことを問う。子の曰わく、未だ人に事えること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰わく、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
(先進第十一)

 樊遅、知を問う。子の曰わく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂うべし。
 (雍也第六)

という言葉も神霊を全く否定するわけではないがとりあえず現世のことをしっかりしなければならない。この世の中をしっかりと治めなければならない、ということである。
 また、輪廻転生などの思想を考えると一見現世利益からかけ離れているように見える仏教も実は中国に流入してからは大きな変貌を遂げ、現世利益を重んじる宗教になった。ここでは一例を挙げるに留めるが、禅宗は、「今、この現世で悟りを開く」ということを目的としており非常に現世的である。
 戦国時代の老荘思想に端を発する道家思想も例外ではない。理念の上では「道」や「万物斉同」といって生死に拘ることを無意味なこととして捉えるが、実際は不老不死の思想や如何にこの世を充実したものとして過ごせるか、という方向に結びつく。
 況や、太平道や五斗米道が広まったのは後漢末期の疲弊した社会情勢の中である。上は外戚と宦官が激しい権力争いを繰り広げたあげくに、外は異民族が次第に勢力を強め、内には叛乱が起き、財政が破綻すると官職を売買して更に国家は腐敗を進行させた。こういった状況の中でもっとも痛烈な被害を受けるのは下に位置する人民に他ならない。
 こうした状況の中で張角・張宝・張梁の三兄弟は「蒼天既に死す、黄天まさに立つべし」というスローガンを掲げて反旗を翻そうとしたのである。この集団がいわゆる太平道であるが、彼らは宗教的な儀式も行ったし、集団としての求心力は先述したような宗教的側面を有していたが、行おうとしたことは武力による革命である。恐らく彼らはねずみ算式に信徒を増やし、それを三十六の「方」という組織に分配し、各地で一斉に挙兵しようとした。この計画は図らずも露見してしまい頓挫するがこれが当時の社会情勢の混乱に一層拍車をかけることになった。しかし、ここではあまり社会的側面については深入りをしない。
 太平道の宗教的側面、特に道教に連なる側面、について述べるとすれば、先述の医療分野の他に、「黄天まさに立つべし」というスローガン、『太平清領書』や于吉との関係、そしてについての問題がある。これらの問題について少し考えてみよう。

 「黄天まさに立つべし」という言葉は前の「蒼天既に死す」という言葉と対になっており、様々な学者を悩ませてきた。一見すると五行説から導かれるようにも見えるが、漢は火徳であり、青から黄への変化には合致しないように思われる。五行説によれば蒼は木であり、黄は土であり、漢朝の火徳は赤である。大淵忍爾氏は『初期の道教』(創文社、91年)の中で、蒼は木であり、木が無くなれば火も消えるのは自明の理。火が消えれば残るのは土である。として五行相生説をカモフラージュしたものだと説明している。また、宮川尚志氏は単に新たに「黄天」を建てる、という意味であり、「蒼天」には意味がない、とする。また、福井重雅氏は一切五行説とは関係ない、とする。
 このあたりは諸説紛々としており一概には云えないが、太平道が「黄老の道」を奉じていたこと、さらに、黄色は五行で中心であること、などから宮川氏の意見が妥当ではなかろうかと思う。但し、この事に関しては更に研究の余地があるだろう。
 後の道教との関係、ということに関して云えば今から述べる『太平清領書』や于吉との関係は重要な点である。『太平清領書』は于吉が授かったと云われる書物で現在は『太平經』の中に一部収められている。但し、原形を留めているとは考えにくいのではっきりとこういうものであった、と断言することはできない。張角はこの『太平清領書』を入手し、それに従った、ということになっている。ちなみに『三国志演義』だと張角に書物を授けたのは南華老仙であり、授けた書物は『太平要術』となっている。南華老仙とはこれ即ち莊子のことであり、一層道教色が濃くなっている。また、于吉も『三国志演義』に登場するがこちらは孫策に斬られる仙人である。正史にも登場するこの仙人が『太平清領書』を世に知らしめた于吉と同一人物かどうかは不明である。
 『後漢書』の襄楷伝によれば

  初め、順帝の時、琅邪の宮崇は闕を詣で、其の師の于吉が曲陽泉の水上に於て得し所の神書百七十巻を奉る。皆、縹(はなだいろ)の白素(しらぎぬ)、朱の介(罫線)、青の<巻>首、朱の<題>目にして「太平清領書」と号す。 〜中略〜 後の張角は頗る其の書に有(したし)む。

とあり、于吉や『太平清領書』との関係の深さが伺える。そして、『太平清領書』を受けて作られたと思われる『太平經』は後の道教の中で大きな役割を占める書物である。故に太平道自体は叛乱の失敗により消滅してしまったが後に及ぼした影響は少なくないと云えるだろう。
 だが、治病や経典の実行という点で、初めて道教らしき集団があらわれ、世の中に衝撃を与えた、という点では太平道は道教史において一定の役割を果たしたと云えるものの、叛乱計画が露見し革命が頓挫してしまった為、最終的には官軍にうち破られることとなり  雲散霧消してしまった感がある。どちらかといえば道教と云うよりも後漢王朝に決定的な痛恨の一撃を与えたという点で中国史上に名を残す集団であったといえよう。

<第二章     北方の原始道教2:五斗米道>
 一方、太平道のような派手さはないが堅実に地盤を築いたのが五斗米道である。五斗米道の創始者は張陵。張魯の祖父である。『魏志』張魯伝によれば 

  張魯は字を公祺といい、沛国豊県の人である。祖父の張陵は、蜀に身を寄せ、鵠鳴山の山中で道術を学び道術の書物を著して人民を惑わせた。彼のもとで道術を学ものは五斗の米をお礼に出した。そのために世間では米賊と呼んだ。張陵が死ぬと、息子の張衡がその道術を行った。張衡が死ぬと張魯がまたこれを行った

とある。益州に派遣された劉焉とはわりあい友好な関係を保ち、漢中の攻撃を命じられた。漢中をおとすと、同じく劉焉に派遣された張脩を殺して漢中に独自の勢力を保った。ちなみに、『魏志』張魯伝が引く典略によれば張脩が五斗米道を行ったことになっているが裴世期はこれを張衡の間違いであろうとしている。
 いずれにせよ張陵に端を発したこの五斗米道は漢中周辺に地盤を築くことに成功した劉焉が薨じ、劉璋が跡を継ぐと劉璋は張魯の母と家族を殺した。どうやら劉焉と張魯の母は親密な関係にあったらしい。また『魏志』張魯伝から引用すると  

  張魯は<張脩を滅ぼした後>そのまま漢中を占領し、妖術によって住民を導き、自ら『師君』と号した。道術を習いに訪れた者に対して、最初すべて、『鬼卒』と呼び、本格的に道術を授けられ、信心するようになった者を「祭酒」と呼んだ。祭酒達はそれぞれ一団の信者を支配し、団の人数が多いものを治頭大祭酒と呼んだ。

とある。あまり好意的な見方はされていないが、張魯は祖父・父から受け継いだ五斗米道を行った、ということであり、その内容は、太平道と同じような治病や懺悔の告白のようなものであった。太平道も五斗米道も信者を獲得する根本の方法は懺悔による治病である。それでは双方に接点はあったのかというと、なかったとは言い切れないが、積極的な交流があったとは云えないようである。
 組織の建て方も違えば、活動の方向性も違う。また宗教的に見ても双方には相容れない点があるようである。以下、五斗米道を太平道との違いという点から見てみたいと思う。
 両者は治病ということに関してはほぼ同じだが、治病及び治病後のプロセスが違う。同じ治病という行為に関しても、太平道の場合は神秘的な効用があるとされる杖及び汚れを浄化する水を用いて人間が治病を行う。それに対して五斗米道では天と地と水の神に対して懺悔を行い治病するのである。
 また、太平道では病が癒えても特に謝礼はないが、五斗米道の場合五斗の米を供出することになっている。これこそが五斗米道というなの所以であるが、五斗の米なり食物を供出されて特定の集団の中で供用に帰するというシステムは、一つの社会にとってまとまりが出来る。五斗米道では館を作ってその中に供出された食物を置いて誰でも食べられるようにした(但し必要以上に食べると罰を受ける)が、こういったシステムは五斗米道が漢中という地に根付いていたことを示しているように思われる。
 また、活動の違いも明白である。太平道が大規模な反乱を画策したのと異なり五斗米道は漢中に依拠し、曹操が攻めてきた際も張魯の弟による反抗はあったものの基本的には従順であった。もちろん、自分たちの権利が大幅に侵害されれば反抗したのかもしれないが、その様なこともなくかなり平和理に降伏した。なおちなみに、降伏に関しては閻圃という張魯配下の人物が画策したものである。降伏後は強制移住させられた人々もいたものの、後の道教に一定の影響を与えた。後述する。
 宗教的に見て、両者が別系統であるというのは経典の違いからも明らかだと思われる。太平道は先述したように『太平清領書』を経典としている。しかし、五斗米道では張魯が「師君」という『太平清領書』では天上の存在とされる称号を名乗っていることから源流は同じだとしても『太平清領書』には依拠していない。一方でまた、五斗米道は『老子道徳經』に依拠している。五斗米道では『老子道徳經』を信徒に教える姦令祭酒という役職があったが太平道では『老子道徳經』が盛んに教えられたという記述はない。
 このように両者は一見すると似通っているが別の組織である。しかし、全く関係がなかったわけではないだろう。特に太平道が瓦解した後、曹操軍に組み込まれた人以外で太平道の信者の一部が五斗米道に組み込まれた可能性は大いにある。
 太平道は叛乱に失敗し歴史上からは消えてしまったが、うまく難を逃れた五斗米道はどうだったのだろうか。張魯や一部の人は他の地に移住させられてしまい、五斗米道は危機に瀕したはずである。五斗米道自体は張魯の子・張盛が跡を継いだ。彼は竜虎山という山に行ったというが疑わしい。この真偽はどうであれ、五斗米道はこれ以後諸宗派が乱立し、教義も組織も混乱に陥り進退窮まった。これ以後、五斗米道が人々に受け継がれてきたことは確かであるが、組織としてどのようであったかは全く解らない。
 また、張盛以後の五斗米道は混乱に乗じて神仙思想が混じるなど後の道教に近づいた為、天師道、と呼ばれるようになる。天師とは張陵につけられた号であり、代々の指導者を天師とすることからこの名前が付いた。ちなみにこの天師道は今も続いており、台湾には現在も天師がいる(但し実際に血縁が繋がっているかどうかはきわめて疑わしい)。また、西晋の混乱の際も地道に信者を獲得していたらしく孫恩や孫恩の乱の関係者の多く、そして王羲之等の一族が天師道の信者であったらしい。さらに、東晋になると北方から多くの人々が江南に移住したがそれに従って天師道の信者も南方に移住した。西晋や東晋における天師道のあり方は後述する南方の原始道教との関係において道教史に影響を与えた。

<第三章     南方の原始道教:葛氏道>
 上述の二種類の原始道教と大きく性質を異にするのがこの葛氏道である。序章で述べたように高校の教科書などでは道教の源流は太平道と五斗米道であると書かれている。今まで述べてきたように、太平道と五斗米道も道教史において大きな位置を占めているが、この章で述べる葛氏道も道教史において大きな位置を占める道教の源流である。
 葛氏道とは葛玄と葛洪のいわゆる二葛が始祖とされる宗派である。宗派とは云っても先述の二つの教団同様、葛氏道は道教とは云えず、原始道教集団と云うべきであろうか。しかも、葛氏道は宗教集団と云うよりは師匠と弟子の一対一の関係であった場合が多く、大人数になることはなかった。
 葛氏道の始祖は左慈である。左慈は金丹という不老長寿の薬を仙人から授かり、その秘法を葛玄に伝えたとされる。葛玄は鄭隱にそれを伝え、葛洪はそれを鄭隱から教わった。葛洪は葛玄の従孫で、『抱朴子』を著した人物である。左慈と葛玄は三国時代の人物であり、特に左慈は『三国志演義』でもおなじみである。葛玄は東呉の人物である。
 葛氏道は葛洪によって『抱朴子』にまとめられたが、その最大の秘術は金丹にある。しかし、金丹は作成が非常に困難である為、それに少しでも近づく方法として導引術、房中術、服薬法、そして存思法が説かれている。導引術とは呼吸法、房中術とは精気の運用法、服薬法は文字通り薬について、存思法は心で神に祈る方法である。
 葛氏道は太平道や五斗米道とは違い呪術的側面を排斥する。金丹も科学に近いといえるし、導引術なども元来は呪術的側面は少なかった。一方で、道徳的規範は厳しく、たとえ金丹が手に入らなくとも、道徳的な生活をすれば仙人に近づけるという。
 葛氏道は、先程述べたとおり、後の道教に大きな影響を与えた。道教は主として三洞説唱えられている。三洞説とは道教の経典の種類を洞真部、洞玄部、洞神部に分類する考え方であり、それぞれ上清経、霊宝経、三皇経という経典が入る。詳しい説明は省くが、それぞれに対応する神がおり、多数説では信奉する系統によって宗派が分かれるとされている。例えば茅山派とも呼ばれる上清派は上清経を主として信奉している。また、霊宝経を重視していた人々は霊宝派と呼ばれる。但し、小林正美氏はこれに対して異論を唱え、基本的に彼らはすべて天師道の中で伝授を行ったので天師道の信者だとする。この天師道とは云うまでもなく五斗米道に端を発する天師道である。また、ちなみに、三洞説の創始者ではないかといわれる劉宋の陸修静は陸遜の子孫である。さて、三洞説について軽く説明したが、これらの中で葛氏道は霊宝経と大きな関わりを持ったとされている。また、三皇経などの成立にも大きく関与していたと云われている。
 ちなみに、上述した三者の宗教集団が厳密には道教と云えないのには理由がある。彼らは確かに神秘主義的な行為や神仙思想的な流れを有してはいたが、後の道教に見られるように特定の神を信仰する事をしなかった。また宗教としての儀礼の一貫性や世界観の論理構造も未熟であった。これらの教えがある程度の一貫性をもって成立するのが寇謙之による天師道の儀礼整備であり、陸修静の経典整備なのである。そしてその背後には既に理論武装されていた仏教から受けた攻撃の影響が色濃く繁栄されていた。原始道教集団の指導者達は論理構成を仏教から拝借したり新たな理論を構築したりして「道教」を創り上げたのである。

<第四章     原始道教から道教へ>
 さて、このように大きな影響力を持っていた葛氏道だが、少なくとも葛洪の時までは五斗米道若しくは天師道とは関係を持たなかった。むしろ、葛氏道は天師道が行っていたような呪術まがいの行為を否定していたし、天師道側は混乱していてそれどころではなかったのだろう。両者ともに積極的なコンタクトは伺えないどころか、互いを忌避しているような感さえ受ける。
 しかし、晉が西遷し、北方の人々が江南に移住してくると両者は関係を持たざるを得なくなった。葛氏道も葛洪以後は呪術的側面を強めていたらしいが、恐らく両者が互いに刺激し合って発展していったのだろう。例えば天師道側は葛氏道の経典類を見て刺激を受けただろうし、葛氏道側も信徒の多い天師道から大いに刺激を受けたはずである。
 この二系統の宗派をうまく合一したと見られているのが先程述べた陸修静である。彼は時の皇帝から「三張二葛」を広めたという詔勅を受けた。彼が互いに刺激を受け合って出来た新たな経典類を三洞説に従って分類した、といわれているのである。北と南の原始道教の潮流が集まって大きな『道教』という流れになったのはちょうど後漢末期から西晋にかけてである。そして、この流れはまた新たな流れを巻き込んだり巻き込まれたりしながら現代まで脈々と受け継がれてきているのである。
 このように考えると後漢末期の社会情勢や、三国時代における社会情勢が道教の成立に大きな影響を与えたことが解る。そしてまた、当時社会を席巻しかけていた仏教との強烈な鍔迫合の影響もあり、道教は理論的にも大きな発展を遂げて中国を代表する宗教の一つになり得たのである。ちょうどのその変革の時が混乱に満ちあふれた三国時代だったのは単なる偶然とは云えないだろう。群雄達が割拠し勢力争いを繰り広げる一方で、人々には心身の支えを求めて宗教的集団が広まった。それは幾つかの潮流に分かれつつも中国全土に拡がり、更にそれが統一されて道教という宗教になったのである。

 <最後に>

 今年度が始まってしばらくしてからずっと暖めてきたネタでありながら自分には荷が重すぎたようで竜頭蛇尾になってしまいました。まあ、時間がなかったこともありますが。一晩でこれを書くのは結構きつかったです。太平道と五斗米道だけに絞ろうかとも思いましたが、話の展開上最後までやった方がいいだろうと思って最後までやりました。ただ、葛氏道や六朝道教史は難しいです。以前、大学のレポートで陸修静について調べましたが、諸説紛々としすぎていて混乱するばかりです。今回の葛氏道と道教の成立も全く説の違う本を読んで、それをどうにかこうにかまとめました。自分でも理解しきっていない点が多々あるので至らない点があるかと思いますし、そもそもあまり深入りしませんでした。
 ただ、正史以外の『三国志』をもっと掘り下げていくのも面白いかなと思いました。いずれ機会が有れば、道教発展に大きな影響を与えた仏教の三国時代における様相も研究してみたいものです

<参考文献一覧>
    小林正美 『中国の道教』 創文社 1998年
    大淵忍爾 『初期の道教』 創文社 1991
    福井康順「葛氏道の研究」津田左右吉編集『東洋思想研究 第五』岩波書店、1953
    神塚淑子「小林正美氏の書評に対する反論」『東方宗教』96号、日本道教学会、2000
    山田利明 『六朝道教儀礼の研究』  東方書店 1999 
    澤章敏  「道教教団の形成−五斗米道と太平道−」、『講座道教T 道教の教団・組織』
    窪徳忠 『道教の神々』講談社学術文庫 1996
    今鷹真・井波律子訳 『正史 三国志T・U』ちくま学芸文庫 1992,93
    金谷治訳 『論語』 岩波文庫 1963
    井波律子訳 『三国志演義』 ちくま文庫 2002
    金谷治 『中国思想を考える』 岩波新書 1993
    『漢書・後漢書・三国志列伝選』平凡社