早稲田大学三国志研究会レジュメ                  625日(火)

「蜀漢政権での土着者」

                                   じろうくん

● 概観〜入蜀から滅亡

 劉備政権は、独立勢力化していた劉焉・劉璋父子の作り上げた蜀の政権を、奪う形で成立した政権である。では劉備入蜀時の重臣はどんな顔ぶれであったろうか。正史を読む限り、上げるならば、以下のような面々であろう。

@  ブレーン集団=諸葛亮(荊)、法正(益)、馬良(荊)、蒋[王宛](荊)、費[示韋](益)
   A 将軍軍団=関羽(幽)、張飛(幽)、趙雲(冀)、魏延(荊)、馬超(涼)、黄忠(荊)、王平(益)、
   B 幕僚軍団=簡雍(幽)、孫乾(青)、陳震(荊)、糜竺(徐)、伊籍(荊)
   C 旧益州閥=李厳、黄権、厳顔、呉壱、董和、許靖…etc.(益)
⇒ ()内は出身ないし、劉備に臣従した時の所在である。

 当然ではあるが、蜀土着(益州出身)の名は少ない。特に気になるのは、劉備流浪時代からの臣は華北出身の者が多い点である。彼らが、益州劉備政権誕生時に大きな存在であったことは以下の点で推測が可能である。
  ・やはり旧益州閥への警戒心から、当面は自らの信頼のおける者が必要。
  ・苦労を共にした臣下への傾斜措置。

だが、歴史が進むにつれ、旧益州閥はじめ、馬忠・張翼・ケ芝・董允・楊戯・[言焦]周といった、蜀の地出身の人物の比重が増していく。それは、入蜀時の武将の死亡という必然的理由によるが、それは、蜀の国家的意義の変容をも意味するのではなかろうか。即ち、劉備入蜀以来の関中奪回に燃える系譜から益州の土着勢力中心の系譜への変容である。その変容の極みが、蜀滅亡時において、徹底抗戦ではなく[言焦]周の言った「降服」という結果に現れたとも、読めるのではなかろうか。(現実問題として抗戦できなかったという視点は今回あえて離れてみたい)

      通説への疑問

だが、蜀政権の内部構造にはかのような通説がある。
「政治の中枢は、荊州からの者が多く、益州土着の者は中枢にはつけなかった」
   はたして事実であろうか。これには以下の批判が当たると思われる。
   仮に土着閥を中枢から完全に締め出していたのであれば、不満がたまり、内乱が起こっていた可能性が高い。
   先も述べたが、外来の将は時が経てば死亡していくが、土着の将は絶えず供給される。いつまでも土着勢力が中枢になれないというのは、考えにくい。
・ 楊洪伝より、諸葛亮への賞賛

この観点から私がしなくてはいけないのは、この通説に対する反証を提示し、旧益州閥・土着勢力が中枢に参加または参加しえた証拠を正史から拾わねばなるまい。そうでなければ、蜀の政権の性格的変容という説を立証できないからである。

観点:1 「尚書」
最高位:録尚書事=諸葛亮―蒋[王宛]―費[示韋]―姜維・・・・土着勢力なし。
     平尚書事=馬忠―諸葛瞻―董厥・・・・・・・・・・「馬忠」は土着。
     尚書令=法正―劉巴―李厳―陳震―蒋[王宛]―費[示韋]―董允―陳祗―董厥・・・なし。
⇒ わずかに馬忠のみ土着である。残念ながら、反証としては十分といえず、詔勅を扱う尚書の分野では土着の者が入る可能性は少なかったかもしれない。

観点:2 「三公九卿」についた土着者
 (三公=旧益州閥の許靖が名を残しているのみ。)
大司農=秦[ウ冠+必]    光禄勲=黄権    太常、大鴻臚=杜瓊
あたりが土着(益州出身)。

⇒ 当時(後漢)の三公九卿は実質のない名誉職であったという話を耳にする。とすれば、彼らが中枢に参加したとはいい難いかもしれない。

観点:3 軍事関連の職
  (参考) 3公に比される:驃騎・車騎・衛
        1品:大司馬・大将軍
        2品:撫軍・鎮軍・輔国大将軍、征南・征西・征北・征東・鎮東・鎮南・鎮西・鎮北
        3品:安南・平西・平北・前・後・左・右・征虜など
        4品:振威・奮威・楊威・楊武
        5品:盪寇・昭徳・討逆・討寇・牙門・偏・裨・昭文・忠節・建信・軍師・翊軍・安漢・討虜など

    〜主な土着武将の軌跡〜
       黄権=牙門将軍
       王平=裨―牙門―討寇―安漢―鎮北大将軍
       楊洪=忠節将軍
       張嶷=牙門―盪寇
       馬忠=奮威―安南―鎮南大将軍
       張翼=征西大―鎮南大―左車騎将軍
       句扶=左将軍
   ⇒ 上記を考察するに、王平・張翼・馬忠の活躍が目立つ。
 特筆すれば、それぞれが加官を受けたのは蜀のまさに正念場のときである。下記のように彼らが孔明死後の蜀の軍事の中核的存在であることを勘案すれば、この事実は孔明死後の蜀における彼らの存在感の伸長を示している。
 王平=234(孔明死の直後)に安漢将軍・漢中太守兼任
      243(蒋[王宛]、病でフ(注:地名)に滞留時)に鎮北将軍・蒋[王宛]に代わり漢中の指揮
 馬忠=233に安南将軍、南部統治
      242に鎮南将軍、さらに244年魏侵攻に費[示韋]が漢中へ赴く際、尚書として政務、

○ではなぜ、尚書などの主要行政職への進出よりも軍事方面での進出が顕著なのか。 
       軍事というのは、兵の徴用・軍の監督という面で土着勢力のほうが、やりやすい。
      民からしてみれば、外来の将軍より、土着で名声ある将軍のほうが、バイタリティも出る。

       行政職は劉焉・劉璋統治時代から、土着でない劉氏の配下が行っていた。
      旧益州からの面々も益州出身でない者は多い。(法正・許靖・ケ芝・費[示韋]など)

故に、行政職に土着勢力が踏み込む素地は少なかった。
といったことがあげられよう。

さて先ほどの王平・張翼・馬忠の3将につき、張翼の考察がまだである。それは、土着の者でもっとも顕著な昇進を見せたのが張翼であるからである。以下、張翼につき考察してみよう。

● 土着勢力の代表:張翼の存在感
  ・ 張翼の出自=高祖父(祖父の祖父)が後漢の司空張浩。曽祖父は広陵太守
           〜名門!
  ⇒ 蜀内でも有数の名家であったことが窺える。
     張翼の足跡=234都督―238尚書・征西大将軍255鎮南大将軍―259左車騎将軍
          〜なんと!3公に比される位まで!
  ⇒ 異様なまでの出世である。車騎将軍位は、張飛―劉[王炎]―呉壱―ケ芝―夏候覇―廖化
     といった非土着の占有であったからである。

  ・エピソード
   「積極的に北に出兵を図る姜維にいつも反対の意を述べていたが、姜維は必ず張翼を従軍させていた。」
  ⇒ これは何を意味するのか。自分に反対する者を鎮南大将軍に加官してまで連れて行く意味がどこにあるのか?大きな疑問である。理由は以下があろう。
   ・ただでさえ姜維には与えられる兵は1万余であるから、土着勢力代表の張翼が従軍することのよる求心力の増大は必須であった。
   ・土着勢力の張翼がいることで、他の非協力的土着勢力の協力が期待できる。
   ・武将不足。
〜すなわち、裏をいえば、張翼の従軍なくして、姜維の北伐はありえなかった、ということすら推論できる。姜維が兵権を一手に握っていた蜀晩期の軍事体制における土着者の存在感はここまで伸長していたのである。

● まとめ
   蜀はその成立から宿命的な問題をかかえる。すなわち、漢王朝の正当な継承者としての側面(中国統一の悲願)と、益州という地方
 政権としての側面(土着者の利益を守り、支援を受ける必要)の2項対立である。その成立当初は確かに孔明をシンボルとして前者に傾斜していたが、孔明死後は、前者勢力の死亡による減少という必然と土着化という波により後者に傾斜していったのではないだろうか。呉のような元来の土着政権に比べれば、蜀はその変質という過程により、によって衰退を早めたともいえるだろう。譙周の降伏勧告は戦乱におびやかされるのを嫌った土着勢力一同を代表した悪魔のささやき・・・だったのかもしれない。そしてそれは土着化した蜀にとって必然的ともいえる結末であったといえるだろう。

以上.

      会員の批評
   土着の人が行政職に入る余地はなかった→トップのみが荊州派閥で、末端は地元民では?
   例が張翼だけなのは弱い。
   土着の概念が難しい→劉焉麾下の人たちは土着か?劉備は以下の武将の子達は?
   蜀は資料が少ない→国家といえるのか?
   軍人で有能な人材がたまたま益州出身だったのでは?→益州からしか人材補給できないのだから当然。