女性に見る、三国志演義の裏

                                      大豪院邪鬼

序論
 戦乱の物語において、女性の戦に携わる姿が時として見受けられる。好例は、西洋のジャンヌ・ダルクであろう。その神秘性の是非はともかくとして、彼女がフランスに勝利をもたらしたのは――ファンタジーに近いとは言え――歴史的事実であり、物語の題材として申し分ない。
 中国の物語となると、戦場で活躍する女性の数は飛躍的に増加する。いわゆる「女傑」だ。特に絢爛豪華な物語と言えば、『水滸伝』であろう。『水滸伝』では、扈三娘を始めとし、孫二娘、顧大嫂、瓊英、答里孛、段三娘と六人もの女傑が登場する。
 また、『封神演義』においても、数多くの女性道士が登場する。そのほとんどが一級の強さを誇り、男顔負けの能力を有している。
 では、『三国志演義』はどうであろうか。これが、意外と少ない。戦乱の世を扱った物語であるのに、女傑と呼べるのは孫仁こと、孫夫人ただ一人。正史で大活躍した王異は、王氏として没個性人物に貶められている。
 何故、『三国志演義』では女傑が少ないのであろうか。儒教思想の影響が強い――とする発想は、極めて幼稚なものだと言える。全ての原因を儒教一つに求めることはできないのだ。
 ここで改めて問う。どうして、『三国志演義』では女傑が少ないのか。
 今回のレジュメは、『三国志演義』の作者(あるいは作者たち)の意図を考察したものである。

『三国志演義』の異常性
 原因の一つとして、「『三国志演義』は歴史を忠実になぞらえた小説であり、それも戦乱史を題材にした以上、女傑という非現実的な存在が登場しないのは当然のことである」といったものが先に考えられる。
 一見これは納得のいく説明のように思えるが、実際は穴だらけの論理と言えよう。中国の、特に中世の小説には、歴史を題材にしたものが数多くある。『楊家将演義』を始めとし、これらの小説には実に多くの女傑が登場する。これらは確かに、歴史と食い違っている面がある。だがそれは、実在しない女傑を登場させたから、史実と違ってしまったとは言いがたいものがある。事実、女傑がほとんど登場しない『三国志演義』でもまた、史実と異なる点が数多く見られる。
 つまり、女傑の存在の有無は、歴史物語の正確さとは無縁に近いと言っていいだろう。歴史に忠実にしたため、女傑を登場させられなかったとは言いがたいのである。
 先の理論をさらに誤りとするのは、『三国志演義』が数々の民間伝承を取り込んでいるという事実――そして、正史三国志や民間伝承において、数多くの女傑が登場しているという事実である。
 例えば、正史三国志では「王異」なる女性が登場している。彼女は魏の武将趙昴の妻で、(『三国志演義』において勇猛で知られる)馬超を撃退した勇敢なる女性だ。彼女は伝こそ立てられていないものの、戦の時は必ず作戦会議に参加したとあり、かなり優秀な女性だったことを窺わせる。同時にこの――作戦会議に全て参加したという――エピソードは、当時の女性に対する態度が、時として大らかなものであったことを裏付けていると言えよう。(これは、曹操の妻に対する態度を見ても判る。彼は実家に帰った妻の下へ行き、わざわざ頭を下げている)このことは、女性が戦争に参加していても何らおかしくない、という問題へと繋がる。
 また、『三国志演義』に取り込まれた『花関索伝』には、鮑三娘、王桃、王悦、花鬘といった魅力的な女性達が登場するはずだが、『三国志演義』ではどういうわけか花関索のみを登場させ、その他の女性群は抹消している。花関索という非実在の人物を登場させておきながら、彼と共に蜀を守って討ち死にしたとされる鮑三娘はどうして登場させないのか。墓まで存在するこの架空の女傑を、何で物語に取り込まなかったのか。
 ここで、『三国志演義』の女性に関する矛盾点を二つにまとめてみた。

    歴史を題材にし、袁紹の勢力拡大の様子など細かい部分まで再現しながら、何故か歴史に登場する女性を封殺している
    削る必要のない『花関索伝』の女傑をあえて削り、登場させる必要のない花関索を登場させている

明らかに異常である。正史に登場する王異は『三国演義』において王氏と名を変えられ、ただの賢夫人としての役目しか与えられていない。また、雑劇や民間伝承で活躍する孫尚香(孫夫人)も、劉備への愛に殉じる存在にしか過ぎない。

どこまで儒教の影響があったのか
 さて――中国の物語に登場する女性について、ほとんどの人が、「男尊女卑という儒教的価値観があるため、その扱いは冷ややかなものである」と考えている。このことから、「『三国志演義』に女傑が登場しないのは、そういった儒教思想が根本にあるから」とする識者は多くいる。
 『三国志演義』の各パートにおいて、儒教的なモチーフは数多く見られる。愛に殉じる孫夫人、義理の父のために己の体を犠牲にする貂蝉、儒教において「美徳」とされるものが詰まっている。
 だから、確かに間違いとは言いがたい。けれども、全てが儒教思想に起因するというのは、やや強引な考えではないだろうか。そんなに単純なことで『女傑』の要素を省いたとは、到底思えないからだ。
 例えば、義父や国家のためとは言え、二人の男と関係を持った貂蝉はどうして非業の死を遂げないのであろうか。本来なら、儒教の道徳観に照らし合わせて、吉川英治の『三国志』の如く自殺させるべきなのである。
 また、左慈や于吉のような妖人が活躍する点も奇妙な感じがする。曹操を貶めるためとは言え、わざわざ道教的な存在である左慈を持ち出してきたのは何でであろうか。道教は基本的に、房中術や錬丹術など、およそ儒教から見ればいかがわしい行いを実践している集団である。しかも左慈は史実において、房中術を実践した、と書いてあるのだ。こんないかがわしい存在を、曹操をからかうトリックスターとして選んだのだから、『三国志演義』に注がれた儒教色は実はそこまで濃くないことが窺える。
 となると、事態はややこしくなってくる。『花関索伝』などの女傑が登場しない理由は、決して儒教的男尊女卑思想から来ているのではない、ということになる。
 そもそも、いくら男尊女卑思想が根底にあっても、物語を彩る要素『女傑』を削る理由になりうるのだろうか。その考え方は、どうもこじつけであるような気がしてならない。

文人、羅貫中
 「羅貫中が文人であり、文人として女傑は好みではなかった」という説もある。これは、もっとも有力な説と言えよう。何故なら、しっかりした裏づけがあるからだ。
 根拠として挙げられるのは、『三国志平話』である。『三国志平話』では、劉備、関羽、張飛の三人は、賄賂をせびる役人を殺した後に山賊へと身を落としている。その後、事態を重く見た朝廷が十常侍を抹殺し、「招安」という形で三人を招き入れている。
 一方『三国志演義』では、三人はそのまま流浪の旅に出て、別の地に身を寄せることとなっている。
 あくまでも、『三国志演義』は「上品」で、「文人的」である。それとは対照的に、『三国志平話』は「粗野」で、「庶民的」だ。ところが、当時の基本スタイルから見ると、『三国志平話』の方が普通なのであり、『三国志演義』が異色なのである。『楊家将演義』や『説岳全伝』を見れば解るように、この当時の小説は「豪快」で「非現実的」なものだ。そしてそのほとんどが、「女傑」を登場させている。
 羅貫中は実際、文人である。だが、文人であるからと言って「女傑」が嫌いであるとは限らない。ここは単純に羅貫中が女傑を嫌ったと考える方がよいだろう。
 こうして、『三国志演義』に女傑が登場しない理由が判明した。
 さて――彼は一人の「小説家」である。小説家が小説を書く際、先立って「書きたい」と思った動機がある。現代では雑誌社と専属の小説家、という関係があるが、当時はあくまでも能動的に小説を書いていた。〆切りなどなく、小説を書く義務もない。裏を返せば、社会的に保証された仕事ではない。そのため、小説を書くということは何か動機がなければやれない行為なのだ。
 では、羅貫中は何の意図があってこの『三国志演義』を書いたのか。その疑問に入る前に、しばし視点を別の作品へと移したい。

『水滸伝』における女性の扱い
 序論で述べたように、水滸伝には六人の女傑が登場する。
 扈三娘、孫二娘、顧大嫂の三人は主人公グループであり、答里孛は異民族の女将軍、瓊英は反乱者田虎の配下の美少女で、段三娘は反乱者王慶の妻である。
 答里孛と瓊英は扱いの良い女傑だ。特に瓊英は、扈三娘や男達を相手に奮戦し、後に梁山泊サイドに仕え、幸せに結婚・出産をするという破格の待遇である。また、顧大嫂は最後まで生き残り、物語の最後の方ではシャム国の王となった江賊李俊に付いて行ったとある。
 一方、扈三娘、孫二娘、段三娘の扱いは酷いものだ。段三娘は悪役であるからともかく、扈三娘は冴えない男と無理矢理結婚させられた挙句、戦場で石つぶてを顔面に受けるという無残な死に方をしている。孫二娘とて例外ではない。
 この扱いの差を、「瓊英は親の仇を討ち取った貞女であるから、作者が儒教思想に則って免罪符を出した」「扈三娘は主家の滅亡に殉じず、仇である梁山泊に従ったから(入山以後は)没個性の人物とされ、無残な最後を遂げた」とする説もある。だが、私はもっと物語の構造から彼女たちの扱いを見るべきではないかと思う。
 水滸伝のストーリーの根幹にあるものは、「地上に落とされた百八の宿星が、罪を購うために地上で己の役目を全うする」というものである。故に、天殺星――黒旋風の李逵は、作中において老若男女問わず人を殺しているのだ。(彼が子供をまるでスイカ割りのように殺すシーンを読んで、「中国人は残酷な描写が好きである」とするのは、以上のことから考えて、全く作品の本質を捉えていないものと言えよう)
 扈三娘、いや――地急星にとってみれば、死を迎えたことは決して悲しいことではないのだ。むしろ、ようやく天界へと戻れるのだから、人間・扈三娘がいなくなったことを寂しく思いつつも、密かに祝福すべきことなのである。

『三国志演義』執筆の動機と、女傑不存在の関係
 『水滸伝』において、一部の女性の扱いのひどさは、「物語の骨子」に原因を求めることが出来た。『三国志演義』では、女傑が登場しない理由を羅貫中の個人的趣味に見出すことができる。
 では、『三国志演義』もまた、女傑が登場しない理由を、「物語の構造」に見出すことができないだろうか。
 そもそも、『三国志演義』はどんな意図があって書かれたものであるのか?意外と、この疑問に正面から取り組んだ人間は少ない。そこで、私なりに『三国志演義』の(執筆当初における)基本コンセプトを考えてみた。

    歴史を解りやすく解説
    人間存在の空しさ、儚さを表現
    今は亡き英雄達に捧げる物語
                etc…

 様々な動機が理由として考えられる。そのどれもが、『三国志演義』作成の動機として相応しいものばかりだ。
 ところが――結局、「どうして『女傑』は登場しないのか」という問題を解くことにはならないのである。
 戦乱物語でありながら、ここまでスッパリと『女傑』を切り捨てている原因は、もはや作者の個人的な趣味に求めるしかない。
 これで『三国志演義』に女傑が登場しない理由がはっきりと判った。
 ところが、まだ一つ疑問が残る。以上の理由で女傑を省いたのであれば、羅貫中は『三国志演義』内の女性にどんな役割を与えているのか。
 ここでもう一度、『水滸伝』に目を向けてみたい。

女性の役割
 『水滸伝』における女性の存在意義とは何か?先に結論から述べると、「数多くの女性を表現する記号」であると言えよう。
 登場する女傑の名前を見ていただきたい。瓊英と段三娘は後世に付け加えられた人物だから除外すると……扈三娘は、「扈家の三番娘」となり、孫二娘は、「孫家の次女」であり、顧大嫂は、「顧家の一番年上の嫂」となる。およそ本名とは言いがたい名前だ。それも、名前の付け方が安直である。この三人、年齢の順に「大」「二」「三」と名付けられている。適当と言うしかない。(後の民間伝承では、三人を姉妹としている)
 特に扈三娘は、「三」という字に「複数」「聖なる」といったニュアンスが込められていることから考えると、「扈家の聖なる娘たち」と読み取ることもできる。扈三娘は女兵士を率いる女傑だが、彼女自身もその女兵士を表現したものと考えられよう。
 また、唯一考えられて名付けられたと思う答里孛は、漢民族離れしたその名前から「異民族」を象徴した存在と読める。
 『水滸伝』における女傑達は、無個性な名前を与えられた、記号的な存在である。(ただし、これは女性差別とは無縁である。小説の表現上の問題でしかない)
 『封神演義』や『児女英雄伝』には立派な名前を与えられた女傑が登場することを考えると、以上のことはそれほど飛躍した考えでもないだろう。
 それでは『三国志演義』を見てみよう。
登場人物の名前を見てみると、貂蝉(元となった『三国志平話』では、ただの幼名)、孫夫人(『三国志演義』で出てくる孫仁という名は、本来別人のもの)、王氏、大喬、小喬……どれもこれも、本名と思われるもので記されていない。あくまでも呼称である。
 唯一、孫魯班だけは本名らしく、王異と違って正史のままの名前で登場しているが、彼女が「悪女」で、しかもたった一回しか登場しないことを考えるとあまり大したことではない。むしろ実名を出されたことで、彼女に対する(羅貫中の)悪意を感じる。
 『三国志演義』における女性もまた、『水滸伝』と同じように「記号的存在」と言える。もちろん、これは儒教や女性差別とは全く関係ないこととして考えるべきだ。ただ、文章表現の技法的な話である。
 ところが、『三国志演義』に登場する女性と『水滸伝』の女傑は、ある点で決定的に違う。それは、「自由意志」の有無である。
 『水滸伝』に登場する女傑は、みな個性に溢れていて、自分の意志で運命を選択している。一番運命に翻弄されている扈三娘でも、一応自分の考えを持って梁山泊に入山したのだ。
 だが、『三国志演義』に登場する女性は、どれもが運命に対して「受動的」である。自由意志を持っているかと思われる二人――貂蝉は「義父と国家のために身を捧げた犠牲」であり、孫夫人は「策謀のための道具」でしかないのだ。つまり、羅貫中があえて女性の自由意志を否定したのであり、羅貫中の好みは全てに従う女であると言えるのだ。
 これは決して勝手な想像ではない。正史では、敗戦した曹操に怒った丁夫人が実家に帰っているが、『三国志演義』にはそのエピソードがない。『三国志演義』では悪役曹操は愛欲の果てに敗戦したのであるから、その上妻に逃げられたという話は曹操を馬鹿にするいいエピソードのはずである。どうして羅貫中はこの話を取り入れなかったか。
 すでに述べたように、羅貫中は自由意志を持った女性が嫌いだからだ。あくまでも夫や天下に従う、従順な女性が好みだからである。こうなると、彼が「文人」である点を通り越して、彼自身の趣味が表れたと言えよう。

まとめ
 こうして考えると、羅貫中が「女傑」を登場させるわけがない。「女傑」とは「自由意志」を持っているから「女傑」なのだ。簡単に男や天下に従ったりしないからこそ、「女傑」は庶民に好まれるのである。
 単純なことだ。羅貫中は「女傑」が好みのタイプでない。だから『三国志演義』には「女傑」が登場しないのだ。

参考文献
正史三国志1〜8(筑摩学芸文庫)  三国志演義大辞典(潮出版社)