三国志研究会レジュメ 2002.5.9
醜美を開く
玄鳳
「臥龍」と呼ばれる諸葛亮に対して、「鳳雛」と称せられる程の優れた才能の持ち主・龐統。しかし、長い間その才能を発揮できずにいた。その理由は風采が上がらなかったからということで、彼には醜悪というイメージがある。はたして彼の容姿はそれほどまでに醜いものであったのだろうか? 龐統の容貌に焦点を当てて考えていきたい。
1.龐統の略歴
字は士元、襄陽の出身。人物鑑定で有名であった司馬徽に才能を見出され、おじの 龐徳に「鳳雛」と呼ばれた。呉の名士達とも親交を深めていた。その後、劉備に仕えたが、始めは重用されなかった。諸葛亮や呉の魯粛の意見もあって、才能が認められ、劉備の軍師となった。劉備の征蜀に従軍し、献策を行っていたが、?城攻撃中に流れ矢にあたって戦死した。演義では、落鳳坡で劉備と間違われて、矢を射掛けられやはり戦死している。
2.容貌
演義・・・相手が不快さを覚えるほど醜悪な顔立ち
正史・・・容貌についての記述なし
演義では、孫権も劉備も 龐統を見ただけで気分を害しており、彼に対する待遇も非常に悪い。これが我々のイメージにある風采の上がらない?統の原因であろう。しかしながら、正史では彼の容姿については触れられていない。ただ「樸鈍」とだけ書かれている。樸鈍とは、性質が地味でにぶいという意味である。
では、なぜ演義と正史で記述がまったく違うのか原因を考えてみたい。
3.演義・正史間の相違点の原因
演義と正史で龐統の容姿について違いがある原因については、大きく三つ考えられる。
〔原因T〕陳寿があえて記述しなかった
〔原因U〕民間伝承が演義に取り入れられた
〔原因V〕羅貫中の脚色である
T・・・信憑性に欠けるからか?
裴松之の注にも 龐統が醜悪であるという記述は見当たらない。
途中で史料が散逸したとも考えられるが、少なくとも裴松之の時代以降には 龐統醜悪説は書物として残されてはいなかったと思われる。
U・・・三国志平話にも 龐統の容姿についての記述はない
ここで、原因Vが浮上してくるのである。私が?統の容姿は醜かったということに疑問をもつ理由はここにある。では、次に 龐統を醜く設定したことにおける羅貫中の意図を探っていきたい。
※ 劉備の龐統に対する初期の待遇の低さについて
演義では、容貌に不快感を持ったからとなっている。正史では、理由については書かれていないが、新参者に対しては県令程度の役職で十分だったと考えられ、例え彼の声望を聞き及んでいたとしても、呉の名士と親交の厚い龐統を俄かには信用できなかったからと解釈できる。原因を容姿に見出すより自然であろう。
4.羅貫中の意図
〇優れた容姿を持つ諸葛亮との対比による諸葛亮の絶対化
→諸葛亮に対抗意識を燃やすも一歩及ばぬ 龐統
〇配下(諸葛亮)の意見に耳を傾け、有能な人材を抜擢する劉備の器の大きさ
→魯粛の推挙にも関わらず 龐統を退ける孫権
三国志演義全体でもいえることだが、ここでもやはり諸葛亮と劉備を絶対化しようとする意図がうかがわれる。特に諸葛亮とは『臥龍鳳雛』として並び称される関係であり、比較の対象にはもってこいの人物であったようだ。
しかし、
龐統の容姿を醜悪に設定してしまったことは羅貫中の失敗だったと思う。
5.矛盾点
演義での龐統に対する三人の君主の態度
曹操・・・賓客として手厚くもてなし、彼に教えを請う。
劉備・・・醜悪さに不快感を覚えながらも、県令に任命。
その後、諸葛亮らの意見を採りいれ軍師に抜擢する。
孫権・・・醜悪さに辟易し、魯粛の推挙を一蹴する。
以上のことから、人の才能を見抜く目・外見によらず有能な人物を受け入れる君主としての度量が、曹操>劉備>孫権であると証明されてしまう。演義において善玉である劉備が、絶対化されるどころか悪玉である曹操に器の面で明らかに劣ってしまっている。
6.結論
○容姿は人の印象に多大な影響を与える
○書物では、人物の顔が直接見えないだけに容姿についての文章は、その人物のイメージを形作るうえで絶大な影響力を発揮している。
→容姿が他の条件(才能、度量など)を強調する材料として操作されうる
私が正史を読んだにもかかわらず?統=醜悪という固定観念を払拭しきれていない理由もここにある。
ここまで龐統の容貌について論じてきたが、結局いいたいのは一言である。
龐統は醜悪であったとは限らない
彼の容姿が実際にはどのようであったのかは不明だが、演義で語られている醜悪さは明らかに虚構である。
また、当然のことであるが、人間性や才能というものは容貌からだけでは判断できない。容姿に惑わされることなく人間の内面を判断することが求められてきたのは昔からのようである。
参考文献・資料
正史三国志英傑伝V 蜀書 徳間書店
中国古典文学大系 三国志演義 上・下 平凡社
三国志平話 光栄