ギザギザハートの鎮魂歌(レクイエム)

〜劉禅論〜

社会科学部二年 白羽扇

1.      はじめに
劉禅公嗣、言うまでもなかろう。正史、演義を問わずもっとも“バカ殿”の評判高き人物である。コーエーの三国志シリーズでは毎回最下位を争うほどの能力値に設定され小説「反・三国志」では蜀が押せ押せモードにもかかわらず暗殺されている(「反・三国志」ではなかったかもしれない)これだけならコーエーの、あるいは演義の被害者で片付けられるのかもしれないが正史においても「暗愚柔弱」(後主伝)など評価はバカ殿である。しかしながら私は孫皓や晩年の曹叡のように暴政を振るっていない点などからもかんがみてそこまで低い評価を受けるに値するのか疑問を抱いている。そこで今回は以下のたたかれる要素を検証しつつ劉禅という人物を再評価してみたい。

 たたかれる要素
1黄皓の重用
2降服(=漢王朝の滅亡)+漢晋春秋のエピソード
3政治的行動を何も行わなかった

2.黄皓の重用
 まずは宦官黄皓の重用である。確かに賄賂を好み権力者に媚びへつらうなど小悪党の権化のような人物である。また宦官による国家の衰退は“本家(?)”である後漢そのままといえるかもしれない。しかしながら「蜀書」をひもといてみると黄皓が政治権力を握った259年の時点で本伝の立っている66人のうち存命中のものはわずか7人である。その7人とは劉永、劉?、?周、卻正、姜維、宗預、楊戯なのであるが、劉永、劉?は皇族、?周は学者、姜維は戦争しか能のない軍人、宗預はその前年に病気療養のため首都成都にかえってきたばかりなどいずれも国政を担わせるには不適格な人物であった。しいてあげるなら諸葛亮伝に付随して伝のある諸葛瞻であるがこの当時諸葛瞻は三十を過ぎたばかりの年齢である上中国には日本のような世襲観はないためむしろ彼を登用することのほうが異例の抜擢なのである。それに対し黄皓は前権力者陳祗の後継者(というのはいいすぎかもしれないが上記の7人より深いつながりを持っていたことは確かである)であり序列としては異常な寵愛の結果とは必ずしもいえない。いいかえれば蜀は宰相(的人物)を出せない程極度の人材不足でありその結果として“かわいい部下”黄皓が権力をにぎったといえるのである。また、陳寿をはじめ多くの識者は「黄皓が国を滅ぼした」と断じているが蜀は荊、涼州から大量に流入した不労人口と姜維の度重なる外征で経済的破綻を起こしていたにもかかわらず国内で反乱がなかった(異民族を除く)点を考慮すると黄皓の内政手腕もそれなりに評価できるものではなかっただろうか。

3、降服+漢晋春秋のエピソード
 漢晋春秋のエピソードとは降服後の劉禅の蜀に対する態度であるがおおまかにいうと以下のようである。(ともに後主伝注)

a蜀の音楽を演奏された際、まわりのものはいたたまれなくなったが劉禅だけは平然とし機嫌よく笑っていたため司馬昭にあきれられた
b司馬昭に「蜀を思い出しますか」と訊ねられた際「まったくありません」と答えた。それを聞いた卻正に諌められ再び訊ねられたときに「一日として思い出さないことはない」と答えると司馬昭に「卻正の教えた通りだ」と指摘されると「そのとうりです」といったため周囲の失笑を買った。

確かに父劉備、諸葛亮をはじめとする建国者達を全く省みない言動であり諸葛亮に深い尊敬を抱く陳寿にとってはなおさら許し難いことであろう。しかしながら少し考えていただきたい。降服者劉禅は身を守る術を何も持たないまま敵地洛陽にいるのである。こんな場所で、しかも敵側の最高権力者司馬昭の前で「昔はよかった」などと言うことは過去の栄光に未練を抱いていたととられかねないことであり自殺行為である。また一般に権力者とはこの手の自身の立場を危うくする言動に敏感なものである。さらに司馬昭という人物は(これもまた権力者にありがちだが)“人を殺す”ということにためらいを感じないタイプであったらしく鐘会の私怨の進言を受けての?康の処刑や(杜畿伝注)敗戦の責任者を訊ねた際に「総帥(=司馬昭)です」と答えた王儀の処刑、(王脩伝注)さらには曹操ですらできなかった“皇帝を殺られるまえに殺る”(高貴郷公紀)を実現するなど枚挙に暇がないほど簡単に人を殺している。それゆえ卻正のような発言を元君主がすることはたとえるならスターリンの前で「ロシア帝国を思い出す」と言ってみたりロシアの宮廷音楽(浅学ながらあったかどうかは知らないが)に感傷を示したりするほど危険な行為であったといえよう。それゆえ二度目に「蜀を思い出すか」と司馬昭に訊ねられた際返答を変えたのはなぜかという疑問に対してもあえて愚鈍を装うことで警戒を解こうとした(司馬昭のセリフから卻正の言動を聞きからかう目的で訊ねたことは間違いない)のではないかと考える。ちなみに演義での父劉備は落雷に驚くことで曹操の警戒を解いている。このように類似したエピソードにおいて後者のみをバカ殿と断じるのは「劉禅=バカ殿」というステレオタイプの結果ではないだろうか。

また、降服とも関係することであるが古代中国において“社稷を守る”とういう概念はきわめて重要な概念であった。漢王朝の皇統(蜀の主としてのほうが正確かもしれないが)を断ち降服した(まさか洛陽に乗り込んで後漢の旧臣と協力して反乱をおこすつもりだったわけではあるまい)劉禅にとって社稷の維持は最重要責務だったはずである。

以上の理由から私はこれらの言動を“バカ殿の証”ではなく“保身のため”ととらえる。普通に考えても祖国に何の感情も抱けない人間と殺されないためならどこまでもはいつくばれる人間(早稲田的ではないかもしれないが(笑))のうちどちらがより存在しうる人間像かはいうまでもないだろう。

4、政治的行動を何もしなかった。
 当たり前かもしれないが伝記とはその人の概略を記載した後言動、エピソードなどを載せるものである。しかし「後主伝」にはその“当たり前”が存在せず概略の後は(降服したことを除き)ひたすら事実の羅列と引用文になっている。しいてあげるなら皇族を王に封じたことくらいだがそれは当然の慣例であり“政治的”行動のうちに入らない。ここから酒色に溺れ政治を省みなかった愚君という評価がうまれてくるのは当然といえるかもしれない。しかしながら“(政治的に)何もしない”というのは中国において一種の帝王学であり、単なるマイナスではなかった。これを“無為”という。無為とは法家の思想で詳しくやればそれだけで一本の論文になってしまうほどだが要約して言えばあえて無為無策を装うことで臣下の能力を100パーセント発揮させることである。そして父劉備こそがまさに無為を体現し関羽、趙雲、諸葛亮らにその才能を十分に発揮させた人物であった。諸葛亮が孫権陣営からのスカウトを断った際に言った「孫権は私の才能を認めることはできても十分に発揮させることはできないだろう」という言葉(諸葛亮伝注)がそれを示している。劉禅は劉備の臨終の際、諸葛亮に法家的書物の写筆を求めるように言われており無為を知っていた可能性は高い。しかし無為とは有能な臣下がいて初めて効果をあらわすものであり極度の人材不足に悩まされていた末期蜀政権においては有害でしかなかった。また董允伝(後主はいつも美人を選び後宮を充たしたいと望んでいたが董允は(中略)承知しなかった。)等の記述や曹叡のように親征(誤字ではない。直接戦闘の指揮をとらないまでも兵の鼓舞のため前線に赴くという意味である。)を行わなかった点から推測するに“酒と女に溺れて何もしなかった”可能性は高い。

5、悪評の原因
 それではここまでバカ殿扱いされる理由はどこにあるのだろうか?ひとつには降服時の一部の家臣達との行動の対照性がある。諸葛瞻は瑯邪王取立ての誘い拒否をして戦死し(諸葛瞻伝)息子劉ェは戦わずして降服することを潔しとせず自殺した。(後主伝注)この対照性からあっさり降服した劉禅はいっそう低い評価を受けるのである。(ちなみにこの現象には先例があり荊州樊城の戦いの際?徳は最後まで戦い戦死したが于禁は降服したことによって他の場面で降服した人物よりも低い評価を受けることになった。)
 また、注を加えた裴松之にも原因を見出すことができる。裴松之ははじめ東晋に仕えた。いうまでもなく東晋とは匈奴に滅ぼされた西晋勢力が南方に逃れて建てた国家である。力で中原を奪われその奪還を夢見る正当なる王朝(あくまでその立場からの見方であるが)という観点から見れば両者は類似している。それゆえ奪還はおろか降服してしまった劉禅に裴松之は悪感情を抱いた可能性は否定できない。ただこれを証明できるような史料は発見できなかった。

6.まとめ
 以上より、酒と女に狂った(可能性が高い)以外の点からは必ずしも暗愚とは言い切れない。むしろ父劉備の“梟雄の相”を受け継いでいたのではないかといっては言いすぎかもしれないが、少なくとも酒と女に狂った上暴政を敷いた孫皓以下の扱いは不当であるといえる。いずれにしても“劉禅=バカ殿”の視点はいくらかの色メガネを通しているといえる。当然の前提も時には疑ってみる価値はあるのではなかろうか。

最後に、作者が先に没したため記載されなかったが書かれてもろくなことを書かれなかったであろう劉禅のために「季漢輔臣賛」調に彼を讃えておく。

劉公嗣は英邁ではなかったかもしれないが世に語られるほどの愚君

でもなくどのような流れにも逆らうことなくその天寿を全うした。

劉公嗣を賛ふ

参考文献:正史三国志(陳寿、裴松之 ちくま学芸書房)
       中国古代思想論(大濱皓 勁草書房)
       三国志の迷宮(山口和久 文芸春秋)
       韓非子(韓非 集英社)